"大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起" 第18話
客席に現れた伊之助
集会所での公演当、の列に見覚えのある男が並んでいた。黒い羽織にな子をかぶっていたが、志乃は横顔だけで分かった。伊之助だった。彼は座の者へ声をかけず、普通の客と同じように切符代を払おうとした。慎吾は受け取るを止め、「本当に客として見るつもりですか」と聞いた。伊之助はうなずいた。「今は、そのつもりだ」
志乃が楽でその話を聞くと、胸のにさまざまなが湧いた。会いたかった気持ちも、腹たしさもある。伊之助に芝居を見られるとうと、また台がぶ気もした。おは志乃の背を軽く叩いた。「役者ひとりのために芝居を変えるんじゃないよ。あのも今は客だ」。志乃は鏡へ向き直り、自分で引いたを見つめた。
このの『の浜』は、で断したよりはるかに落ち着いていた。志乃は最初の台を丁寧に置き、観客の息を確かめながら先へんだ。おの老母は、涙を誘うだけの役ではなくなっていた。息子が戻らなくても網を繕い、の魚を選び、若い女を叱る。客席のどこかで笑いが起き、志乃は稽古の成果をじた。台がむにつれ、客席にいる伊之助のはしずつくなっていった。
終幕、女たちは港の灯を消さずに朝のを迎える。志乃は客席を見渡し、「待つだけでを終わらせたくありません」
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と言った。沈黙が落ちた、拍が起こった。伊之助はちがらなかった。ただ、膝のでゆっくり両をわせていた。志乃にはその姿が見えた。だが、台から彼を呼ぶことはしなかった。
終演、伊之助は楽へ来た。宗にくをげ、続いて志乃にも謝った。「俺がいなくなったところから、こんな芝居にしたんだな」。志乃はし考えて答えた。「伊之助さんがいなくなったからだけじゃありません。おさんたちと緒に作ったんです」。伊之助はうなずいた。そして袖からい封筒をした。相良から受け取ったのうち、約束していた仕事で返せなかった分の精算をめているという説と、役者として次の町へ移ることを告げるいが入っていた。
宗は封筒を受け取り、黙って目を通した。「戻ってこないのか」と聞くと、伊之助は答えた。「今戻ったら、俺はまた誰かの名で飯をおうとする。次は自分の約束を自分で結んでみたい」。宗はし寂しそうに笑った。「そうか。台をりるは、顔をげてりろよ」。伊之助がった、志乃は彼の座っていた客席を見た。役者がひとりっても、座の芝居がそこで終わるわけではないことを、ようやく信じられる気がした。
幕に伊之助が洗いへつと、昔の観客らしい男が声をかけた。
「今はないのかい」。伊之助は「ません」と答えた。男は残そうにしたが、「あの女優も悪くないね」と続けた。伊之助はさく笑い、「ええ、っています」と言った。かつて自分が座の名そのものだとっていたには、そんな返事はできなかっただろう。台にたず、客席からの芸を見ることで初めて分かることもある。伊之助は戻った席で番付をき、志乃だけでなく、おや、惣太の名も探した。裏方の名まで印刷されたさな字を、彼はしばらく指でなぞっていた。
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