みかん小説
本棚

"玄関のピンクのウサギ" 第20話

もうのスリッパ

歳の誕を迎えた、塾の仲たちがさな祝いの会をいてくれた。げさなことはしないでと言ったのに、教のホワイトボードには徒たちが「田島先、おめでとう」とを貼り、井はさなケーキまで用していた。ろうそくを吹き消す、何を願ったのかと聞かれたが、私は「言ったら叶わないでしょう」と笑ってごまかした。

本当は、特別な願いなどなかった。健が元気で、信之もリハビリを続け、教え子たちがそれぞれの所で暮らし、私がも自分ので起きて仕事へければ、それで分だった。

会の帰り、マンションの集会でたちのさな懇親会がかれていた。佐藤さんに半ば引に誘われ、私は顔だけすことにした。そこで初めてきちんと話したのが、隣の棟へ越してきた川正文さんだった。歳。学で歴史を教えていたが、定は暮らしだという。

「田島先、さっきってましたね」

「聞いてたんですか。途でを忘れたのに」

「そこがよかったです」

「褒め方がおかしいですよ」

川さんは料理が苦で、「湯を沸かすくらいならできます」と真顔で言った。私はわず笑った。以の私なら、こういうを見ると「じゃあ今度おかずを作ってあげよう」とすぐ世話を焼いたかもしれない。

広告

けれど今は違う。

「料理教、紹介しましょうか」

「作ってくれるんじゃないんですか」

「どうして私が?」

で笑った。

それから々、廊や所のスーパーで会うようになった。川さんは分なのに野菜を買いすぎ、私は分なのに煮物を作りすぎる。余っただけ交換した。どちらかが毎世話をすることはない。連絡がなくてもらない。会えば本や昔の学の話をする。それくらいの距がよかった。

誕から数、川さんがを訪ねてきた。には古い本を冊持っていた。

「古で見つけました。国語の先なら好きかなとって」

昭の随集だった。表は擦れていたが、はきれいだった。

「ありがとう。よかったらお茶、んでいきます?」

「いいんですか」

「お茶くらいなら」

私は玄関をけた。

そこで瞬、元に目が止まった。

玄関にはのスリッパがあった。は私のい青。もうは、来客用に自分で買った成りの無。ピンクのウサギではない。誰かが勝に置いたものでもない。私が自分ので選び、自分のに置いたものだった。

あの、の。暗証番号が変わった扉ので、私は自分のから締めされたようにじた。にはらない女のピンクのスリッパがあり、夫は「ただの所付きいだ」

広告

と言った。あの瞬、私はを失ったとった。

でも今なら分かる。

失ったのは、全部ではない。

健を育てたも、教壇にった々も、母を見送った夜も、夫が失業したに族を守ったことも、全部私のだ。信之の裏切りで、それまでの私まで価値を失うわけではなかった。

お茶をみながら、川さんが言った。

「暮らし、寂しくないですか」

私はし考えた。

「だから寂しいわけじゃないですよ。でいて寂しかった期もありましたから」

川さんは何も聞き返さず、ただ頷いた。その沈黙がありがたかった。

「川先は?」

「私はに慣れすぎました。でも、たまにこうしてお茶をむ相がいるのは悪くない」

「それくらいがちょうどいいですね」

窓のでのがの葉を揺らしていた。

私の首には、母の翡翠の腕輪がある。たいなのに、議と温かくじる。あの腕輪を取り戻すために万円払ったは、自分でも馬鹿なのかもしれないとった。でも今は、取り戻したのはだけではなかったのだとう。

自分の切なものを、自分で切だと言う権利。

嫌なことを嫌だと言う権利。

誰かを助けても、自分のまで差しさない権利。

そして、もう度誰かと笑うにも、自分で距を決める権利。

川さんが帰る、私は玄関まで見送った。

「またお茶、いいですか」

「ええ。でも今度はお菓子を持ってきてください」

「分かりました」

扉を閉め、私はのスリッパを揃えた。

歳。

これから何きるかは分からない。

でも、もう誰かの都で自分の居所をけ渡すことはない。

私は青いスリッパを履き、静かな部のへ戻った。

そこはようやく、誰のものでもない、私自のだった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: