"昭和19年、三十二人が夕飯を拒んだ理由" 第9話
帰れないという脅し
井がいなくなった教は、声の響き方まで変わったようだった。臨の教師は若いが誠実で、分からない問題を教えてくれる。しかし子どもたちは、井が毎朝尋ねていた「昨夜、よく眠れたか」という言が聞こえないことに慣れなかった。正雄は授業も廊に目をやり、あの背のいが現れるのを待っていた。
町へ向いた井は、毎夕必ず玄へ状況を伝えた。印箱を預け、類の付を照しているという。古川の作った通には、寺側から申したというき添えがあり、担任の署名に似た字まで添えられていた。井はそこに自分がいていない箇所を示したが、同に俵受領とかれたには自分の印が本当に押されていることを認めた。
その話を聞いた正雄は、先がただ騙された被害者ではないとった。の事を続けるためだと説を受け、寺へ来なかった俵のことをりながら承認したのは井自だったのだ。先は子どもたちを守ろうとしていた。しかし守るための嘘が、しい嘘を呼び、ついにはの名簿を消す実になってしまった。
午、糧係の古川が寺へ現れ、玄に向かって言った。「このまま騒ぎが続くなら、のの受け入れについて町として再検討します」
広告
。正雄は柱ので聞いていた。「受け入れをやめるということですか」と玄が尋ねると、古川は肩をすくめた。「寺にもにも迷惑がかかっていますから」。それは正雄が番恐れていた言葉だった。
子どもたちのに噂が広がった。京へ戻されるらしい、別の宿舎へ移されるらしい、保護者が迎えに来るまで学へけなくなるらしい。誰も確かなことをらず、らない分だけ怖かった。節子はさい子を集めて絵本を読んだが、いつも笑う郁夫が度も笑わなかった。
夜、正雄はれの妙子を見った。はしがり、湯気のつ粥を匙でに運んでいた。妙子は正雄を見ると、「先、戻ってこないの?」と尋ねた。「分からない」と答えると、妙子はった顔をした。「私、声を聞いたことを言っただけなのに」。正雄は布団のそばへ座った。「妙ちゃんが悪いんじゃない。僕らもりたかったんだ」。
「私、あの夜もうつ聞いた」。妙子は匙を置いた。米俵を戻した男が、「俵じゃりない、分をしたことにすれば帳尻がう」と言っていたという。井はその、「そんなことはしていない」とく答えた。妙子はで記憶が曖昧かもしれないと怖がっていたが、その言葉だけは忘れられなかった。
正雄は戸倉作業所の女をいした。向こうでも飯が減っている。
広告
もし町が寺の分を消せば、べ物はどこへくのか。子どもの分を役所が取りげて、を造るがべているのなら、なくともそのたちは満腹のはずだ。だが正雄が見た女のはひび割れ、頬はこけていた。
翌朝、たかの父が寺へ米袋をつ運んできた。袋のは粟と乾燥した芋がで、米はほんのしだけだった。それでもしのは々とをげた。たかの父は、「の分を持ってきたんじゃない。戸倉の女たちでしずつ寄せたんだ」と言った。正雄は衝撃を受けた。寺から米を回されているはずの作業所のたちが、寺の子どもへべ物を届けてくれたのだ。
「みんな困ってるんですか」。正雄が聞くと、男は苦く笑った。「誰も楽じゃないさ。ただ、困ってる者同士が喧嘩すれば、得をするもいる」。男は名をさなかった。正雄はそのをすぐには理解できなかったが、昼休みに節子へ話した。「寺と作業所が奪いってる米は、本当は両方へ届くはずの物なんじゃないかな」。
その夜、正雄は母へのに初めて本当のことをいた。飯がないこと、妙子が病気になったこと、先が仕事をれていること。そして最に、「でも僕は、今ここで誰かが困っているのをっています。だから、すぐ迎えに来てとは言えません」と記した。翌朝、封筒をしたあと、正雄は自分でも怖くなった。
母がどんな気持ちで読むのか、像しきれなかったからだ。
広告
おすすめ作品
-
完結第18話
離婚翌日、父と食事中の私を「また金持ちに寄生か」と笑った元夫の末路
結婚生活のすべてを一円単位で折半しながら、家事だけは妻に押しつけていた夫・亮介。「お前は寄生虫だ」と離婚を突きつけられた綾乃は、静かに別れを受け入れた。 その翌日、実父と高級ホテルで食事をしていると、偶然現れた亮介と不倫相手が「もう次の金持ちを捕まえたのか」と嘲笑する。因果応報|夫婦|真実|金銭問題|修羅場|不倫1.9万字5 2 -
完結第23話
昭和53年、満員の始発を止めた運転手――その後、坂道で起きた悲劇
昭和53年7月30日。沖縄の交通が右側通行から左側通行へ切り替わった朝、55歳のバス運転手・新垣清徳は、32人の乗客を前に始発の発車を拒んだ。用意された旧型バスは、乗降口が車道側に開く危険な車両だったのだ。しかし欠便を恐れる主任は、若い運転手にその車を出すよう命じてしまう。やがて坂下から届いたのは、一人の少年が負傷したという知らせ。なぜ危険だと分かっていたバスが走ったのか。清徳は息子や同僚たちとともに、事故の責任と、誰も気づかなかった道路の危険に向き合っていく。職場逆転|時代|歴史|昭和|裡の顔3.0万字5 0 -
完結第21話
赤ペンで消した夫
四十一歳の黒沢洋子は、出版社で腕を認められるベテラン校正者。編集長として出世した夫・和也を支え、七年間、穏やかな結婚生活を送ってきた。ところがある夜、夫から頼まれた若い女性作家の原稿に、見覚えのある文章を発見する。それは、かつて夫が洋子だけに囁いた愛の言葉だった。疑念を抱いた洋子が調べ始めると、原稿の裏には夫の不倫だけでは済まない重大な秘密が隠されていた。やがて和也は、女性作家との十日間の執筆合宿へ出発する。何も知らず帰宅を楽しみにする夫に、洋子は静かに最後の準備を進めていた。夫婦|真実|修羅場|不倫2.3万字5 2 -
完結第22話
空の米びつと一合の嘘
昭和二十三年、大阪の小さな米屋で、女将のフミが配給米を一合ずつ少なく渡しているという噂が広まった。怒った住民たちが店へ押しかけ、米を隠しているはずの台所を調べると、そこにあったのは空っぽの米びつと薄い麦粥だけだった。なぜ客の米を減らしながら、自分の子どもにさえ白いご飯を食べさせられないのか。母の沈黙を不審に思った長男・勇一は、配給帳と運送記録を調べ始める。やがて浮かび上がったのは、途中で姿を消す米袋、受け取っていないのに押された印、そして二年前に亡くなった父の署名だった。時代|歴史|昭和|兄弟姉妹2.8万字5 20 -
完結第10話
亡霊の専属運転手
かつて海外の特殊部隊で「ファントム」と恐れられた神代美央は、戦場を離れ、平穏な人生を求めて大企業の会長専属運転手に応募した。しかし最終面接で待っていたのは、「女に会長を守れるわけがない」と嘲笑する副社長と、十一人の屈強な男たち。美央だけが、彼らのスーツの下に隠された拳銃に気づいていた。やがて現れた鷹司会長は、美央の履歴書を見た途端、激しく震え始める。職場逆転|真実|真相|第二の人生1.5万字5 146