"昭和21年、米を没収された母が引き返した理由" 第2話
印箱
若い巡査の名は田といった。交番の奥に案内された澄子は、悟を隣の子へ座らせた。はすでに暗くなりかけている。窓に映る息子の顔を見ながら、で待つの子のことがをれなかった。田は机へ包みを置き、から掌ほどの属箱を取りした。箱はで、角に古いへこみがあった。
「米とは別に預かっている。これは、あなたの物ですか」
「違います。農の奥さんが息子に持たせたようです。私はらなかった」
「それなら、なぜ戻ってきた」
澄子は本の稲穂の印について話した。丹波で見た集荷、そので絹と男が言い争っていたこと、箱を探しているらしい言葉。説しながら、自分がどれほど無防備にを信用していたかをいらされた。着物を差しせば米がに入るとった。絹は、同じ町内で暮らしていただったから疑わなかった。
田は属箱の蓋を慎にけた。には細い具に似た具と、みのあるさな鉛の塊が数個入っている。折り畳まれたいもあった。田はその枚を広げ、顔を寄せた。表には箱の数と、運ぶの記載がある。澄子には細かな文字より、のほうに押された同じ本の稲穂が目についた。
「封をする具だな」と田がつぶやいた。「荷物の紐に鉛の封を付けて、あとでけられていないか確かめる。
広告
組が使っているものかもしれん」
「そんな物を、どうして米のに」
「それを調べるんです。ただ、あなたの説だけでは、らずに運んだとすぐに決めるわけにはいかない」
悟が唇を噛んだ。「僕、箱をもらったって言うてもうたら、お母ちゃん捕まるん」。田はのへしゃがみ、「君が見たとおりに話したことは、事なことだ」と答えた。母親をさせるための言葉ではなかった。澄子には、その曖昧さがかえって正直に聞こえた。
田は事を記録し、箱を別の包みに入れ直した。米の扱いについてはこので決められない。澄子には、呼びしがあるかもしれないとも伝えた。帰宅を許されたには、もうを過ぎていた。悟が空腹でふらつくので、澄子は駅でい蒸し芋をつ買った。残りの銭が減ることより、息子に何もべさせられないほうが怖かった。
「母ちゃんもべ」と悟が芋を半分差しした。澄子はさく割った端をに入れ、「甘いな」と言った。実際は繊維がく、喉につかえた。子どもので米のない呂敷を抱えて泣くわけにはいかなかった。
阪のへ戻ると、子は台所のに座っていた。釜にはい芋の汁が残っている。千代は寝ており、清は卓袱台に肘をついて聞を読んでいたが、澄子の荷物を見た途端に面を畳んだ。
広告
「米はどうした」と問う声に、澄子は列で起きたことを順番に話した。
「の荷物を子どもに持たせるとは、どういう女や」と清がった。「取りげられた米はどうなる」
「すぐには返らん。私も調べを受けるかもしれん」
「なら、どうしてわざわざ引き返した。らんと言って帰ればよかったやろ」
子が父の言葉に頷いた。「千代、ずっとご飯のこと聞いてた。私は何て言ったらええん」。澄子は娘に向かって言い訳を探したが、見つからなかった。正しいことをしたという確信だけで、族の腹は満たせない。けれど見らぬ箱を黙っていたら、いずれ誰かに罪をかぶせられるかもしれない。そのつの考えが、夜更けまでのでぶつかりった。
翌朝、澄子がへ菜屑を買いにると、通りの角で顔見りの古物商に声をかけられた。「昨、買いしの帰りに警察へったんやて」。まだ晩しかたっていないのに、町内には話が広まっていた。男は親切そうな顔で「どこへったか教えてくれたら、米を配できる」と言った。澄子は返事をせず通り過ぎた。ろから「さんの名がとるで」と追いかけるように言われた。
昼く、田からに連絡が届いた。、箱の印を確かめるために、丹波の組の者と会うことになったという。澄子も来てほしいと言われ、清は「もうええかげんにせえ」
と鳴った。だがその夜、彼は自分から古い作業鞄を取りし、底から枚のを見つめていた。澄子が声をかけると、清は素く鞄を閉じた。
「何を隠してるの」
「仕事のや。それだけや」
澄子には、夫が自分と目をわせない理由が分からなかった。翌の呼びしで何がらかになるのかもらなかった。ただ、米を失った晩から、のにまで見えない距ができ始めていることだけはじていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
妹の手術前に「家族やめれば?」――私はドナーを辞退した
幼い頃から父と継母に冷遇され、妹・直美の引き立て役として育った広美。家を出て新体操の夢を追っていた彼女は、重い肺の病気を患う妹を救うため、生体肺移植のドナー候補になることを決意する。 ところが手術前の食事会で、広美の席だけが用意されていなかった。 「なんで来たの? 家族やめれば?」 妹の冷酷な一言をきっかけに、広美は臓器提供を辞退する。さらに病院で見つかったのは、身に覚えのない署名がされた同意書だった。 家族の裏切りと隠された不正に向き合い、広美は自分の人生と夢を取り戻せるのか。怒り|兄弟姉妹|真相|親子関係2.9万字5 423 -
完結第13話
杉原千畝の査証を得た一家、母だけが出国できない
一九四〇年、リトアニア。故郷ポーランドを追われた十六歳のミラは、両親と弟とともに、杉原千畝が発給した日本の通過査証を手にする。しかし、それは長い逃避行の始まりにすぎなかった。 足りない旅費、次々と求められる書類、そして母の名前に生じた一文字の食い違い。ようやく出国の道が見えた時、許可されたのは家族四人のうち三人だけだった。 母を残して出発するのか、それとも全員で待つのか。見知らぬ人々の小さな善意に支えられながら、一家は生き延びるための道を探していく。 杉原千畝の「命のビザ」の史実を背景に描く、家族と希望の物語。時代|歴史|昭和2.7万字5 0 -
完結第20話
磨かなかった靴
昭和23年、上野駅前。靴磨きで生計を立てる十三歳の健太は、町の有力者・篠田が差し出した革靴を見た瞬間、磨くことを拒んだ。その踵には、三年前に生き別れた兄と一緒に縫った、忘れられない傷跡があった。 篠田の怒りを買い、仕事場を失った健太は、仲間たちと暮らしを立て直しながら兄の行方を追い始める。ところが調べるうちに、少年たちの年齢を偽った労働書類と、行方不明の兄の不可解な署名が浮かび上がる。 焼け跡の町で、一足の靴を手掛かりに隠された真実へ近づく少年の、勇気と再生の物語。時代|歴史|昭和|兄弟姉妹2.8万字5 39 -
完結第20話
7年伸ばした髪を妹に切られた日、婚約者まで笑った
七年間大切に伸ばしてきた髪を、妹の美緒に突然切り落とされた凛。ところが両親も婚約者の修も、泣きそうな彼女を見て笑うばかり。それどころか、凛が泣き出すまでの時間を賭けていた。 長年、家族のために自分の希望を諦めてきた凛は、ついに婚約を破棄し、遠く福岡への転勤を決意する。 だが、彼女が去ったあと、家族が遊び半分で撮影していた動画から、思いがけない事実が明らかになっていく。 失った七年間を取り戻すように、新しい人生を歩み始めた凛。彼女を笑い続けた人々を待ち受ける結末とは――。因果応報|人生逆転|嫁姑|夫婦|真相|第二の人生2.9万字5 808 -
完結第20話
昭和46年、優勝した妻に夫が告げた「帰るな」
昭和46年、大阪。48歳の主婦・榎本春子は、町内のボウリング大会で男性たちを抑え、見事優勝を果たした。しかし夫・信夫から返ってきたのは祝福ではなく、「そんなに好きなら、もう家には帰るな」という冷たい言葉だった。 小さな鞄を手に家を出た春子は、同じように自分の時間を持てなかった女性たちのため、ボウリング教室を始めようとする。 ところが、会場の予約に夫の会社が割り込み、申込書には身に覚えのない「本人了承済み」の文字が。 妻として、母として生きてきた春子が、初めて自分の人生を選び直す。昭和のボウリングブームを背景に描く、再出発の物語。時代|歴史|昭和2.8万字5 168