"判を押さない妻" 第1話
2の曜だった。
夕の鯖の噌煮をべ終えた頃、夫の戸田正則が箸を置いた。いつもならすぐに湯呑みをに取り、テレビのニュースへ線を向けるだった。けれどその夜だけは違っていた。
卓のに置かれた箸の音が、やけにく響いた。
「律子、話がある」
戸田律子、55歳。夫の正則は61歳。産会社に定まで勤め、今は再雇用で同じ会社へ通っている。結婚して30。子どもには恵まれなかったが、2階には正則の母・吉が同居していた。85歳になった吉はが悪く、夜はく眠りにつく。
そのも、2階は静かだった。
律子は湯呑みをにしたまま、夫の顔を見た。
「改まって、何かしら」
正則は度だけ喉を鳴らし、線を卓に落とした。それから、まるで暗記した文章を読みげるように言った。
「俺には好きながいる。子どももいる。3歳になる男の子だ」
湯呑みを持つ律子のは、しもかなかった。
計の秒針だけが、壁ので淡々とを刻んでいた。
「婚してくれ。慰謝料は払う。このもおにやる。俺は、そのとやり直したい」
正則はそう言うと、くをげた。
髪交じりのが、卓の向こうでさく丸まっている。その姿を見ながら、律子は静かに息を吸った。
言葉によどみがなかった。何も、いや何週も、呂やので練習してきたのだろう。
広告
泣かれることも、罵られることも、正則は覚悟していたに違いなかった。
けれど律子は泣かなかった。
鳴りもしなかった。
「顔をげてくださいな。お茶がめますよ」
正則は驚いたように顔をげた。
「茶の話をしてるんじゃない。俺は真剣に……」
「ええ、分かっていますよ。あなたが真剣なことくらい」
律子は急須をに取り、夫の湯呑みに2杯目のお茶を注いだ。湯気がゆっくりちり、卓の沈黙をぼかしていく。
いを置いて、律子は静かにをいた。
「っていました」
正則の眉がいた。
「え……」
「蓮君でしょう。3歳。お相は輪仁美さん、34歳。駅向こうのアパートの2階」
正則の顔から、みるみる血の気が引いた。
「お……いつから」
「1から。全部、っていました」
正則の背を、たいものがいがった。
「っていて、なぜ普通に……」
その先の言葉は続かなかった。普通に笑い、普通に朝をし、普通に背広を用し、普通に送りしていた妻が、突然まったくらないのように見えたのだ。
正則は震えるで、鞄のに入れていた婚届をいした。
「それなら話はい。婚届はもう用してある」
律子は湯呑みを置き、夫の目をまっすぐに見た。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「絶対に婚しません」
正則の唇がわずかにいた。
「なんでだ。おだって、こんな俺といたって仕方ないだろう」
広告
「あなたをしているからではありませんよ。それはごなさい」
「だったらなぜだ。か。世体か。なら自由させないと言ってるんだぞ」
「さあ、どうしてでしょうね」
「ふざけるな。おに拒む理由なんかないだろう」
律子は静かに器をねた。
「理由なら、あなたがこの1、毎晩私に作らせた夕飯の数だけありますよ」
そう言うと、律子はちがり、いつも通り台所へ向かった。
蛇をひねる音が、のに響いた。
正則は婚届をすことすらできず、湯呑みのでめていく茶を見つめていた。
その微笑みの本当のを、このの正則はまだ何つ分かっていなかった。
律子がすべてをったのは、ちょうど1のだった。
その、律子は正則の背広をクリーニングにそうとしていた。いつものようにポケットのを確認していると、内ポケットから1枚のがてきた。
隣町にある写真館の領収だった。
但しきには、こう記されていた。
「記 蓮様」
律子はその文字をじっと見つめた。
蓮。
聞いたことのない名だった。
戸田に孫はいない。律子と正則のには、子どもが授からなかった。だからの領収など、夫の背広からてくるはずがなかった。
胸の奥がざわついた。
けれど、そので問い詰めることはしなかった。
次の曜、正則は「ゴルフにく」
と言ってをた。律子は夫のが角を曲がるのを見届けると、すぐにタクシーを呼んだ。
広告
おすすめ作品
-
完結第15話
暗証番号0427――元夫が残した24回の送金
離婚の日、朝倉美月は夫の優馬から1枚のカードを渡された。「これで最後だ。暗証番号は0427」――冷たく突き放された美月は、そのカードを3年間使えずにいた。失業し、預金が7300円まで減ったある日、ついにATMへ入れるとエラーが表示され、銀行員から別室へ案内される。そこで知らされたのは、優馬が前年11月9日に亡くなっていたこと。そして口座には、離婚後も毎月27日に9万円ずつ、合計24回の送金が続いていた。残高808万円と古い喫茶店に込められた真意を知った時、美月は、愛情を理由に人生を決められた怒りと向き合いながら、自分自身の答えを選び始める。夫婦|金銭問題|熟年離婚2.0万字5 4585 -
完結第14話
離婚した直後、奪われていた80億円が戻った――元夫の結婚式で私が取り返したもの
「君は古い設計図を抱えた建築士に戻るだけだ」 離婚成立の日、元夫はそう笑った。 その10分後、私の口座に入ったのは――80億円。 それは慰謝料でも、遺産でもない。 父と私から奪われ、別会社へ隠されていた特許使用料だった。 同じ夕方、元夫は愛人との豪華な披露宴を開いた。 新婦の首には、私の母が遺したダイヤのネックレス。 元夫は映像の中で「過去を手放し、未来へ進む」と微笑んだ。 しかし6分後、巨大スクリーンが突然暗転する。 《泰成建設 独立監査報告》 白い文字が浮かんだ瞬間、元夫の顔から笑みが消えた。 そして一本の電話を受けた彼は、膝から崩れ落ちた――。 (続)夫婦|真相|不倫2.0万字5 291 -
完結第12話
夫に「姉のふり」を頼まれた日
「30分だけ、俺の姉ということにしてくれ」 妊娠7か月の奈緒が夫の昇進祝いへ行くと、夫の隣には淡い青のドレスを着た若い部下が座っていた。 社員たちは彼女を「奥様」と呼び、「来年の結婚が楽しみですね」と祝福していた。 夫は社内で、奈緒とは離婚協議が終わっていると説明していたのだ。 「じゃあ、お腹の子はあなたの姪ということ?」 その時、若い部下が廊下へ現れた。 夫は慌てて、奈緒が別の男の子を妊娠し、自分につきまとっているのだと言い出した。 奈緒は黙って、その日の朝に届いたメッセージを見せた。 《帰ったら赤ちゃんの名前を決めよう》 《日曜日はベビーベッドを見に行こう》 部下の顔から血の気が引いた。 しかし会場のスクリーンに映し出された夫の受賞企画を見た瞬間、奈緒はさらに重大な嘘に気づく。 それは2年前、彼女が自分の名前で作ったはずの企画だった。怒り|夫婦|第二の人生|不倫1.8万字5 643 -
完結第14話
ATMで呼ばれた「奥様」
離婚の日、夫から一枚のキャッシュカードを渡された美月。 「これで最後だ。暗証番号は0427」 それは2人が婚姻届を出した日の数字だった。夫に捨てられた悔しさから、美月は3年間、一度もカードを使えずにいた。 仕事を失い、預金が7300円になったある日、とうとうATMへカードを入れる。しかし暗証番号を押す前にエラーとなり、銀行員から「奥様、別室へどうぞ」と案内された。 離婚したことを伝えても、銀行員は「承知しております」と答えた。そして別室で差し出されたのは、元夫が預けていた一通の封筒だった。 表には、《0427を覚えていてくれた美月へ》の文字。冷たく自分を切り捨てたはずの夫は、なぜ3年後に美月が銀行へ来ることを待っていたのか。使われなかったカードには、彼女が知らない夫の決断が隠されていた――。夫婦|真相|金銭問題|熟年離婚2.1万字5 6273 -
完結第11話
父の葬儀を捨てた夫へ、亡き父が遺した最後の証拠
父の葬儀の読経中、夫のスマホが3度震えた。 「会社で緊急のトラブルがあった」 そう言って席を立った夫は、私の父を見送ることなく姿を消した。 喪主だった私は、何も言えず一人で最後まで葬儀を終えた。 その夜、冷たい家に戻ると、午前2時57分―― 亡くなったはずの父の名前から、メッセージが届いた。 「誰にも言わず、母さんの墓へ行きなさい」 半信半疑で向かった先で、父が残していたものを見つけた。 そこに入っていたのは、夫の知られざる裏切りと、私を守るための証拠だった。 そして私は初めて知った。 父は最後の日まで、私の人生を守ろうとしていたのだ。夫婦|親子関係|修羅場|不倫1.6万字5 424 -
完結第13話
私を捨てた元婚約者が、十数年後に知った本当の私
高校卒業二十周年の同窓会に、招待されていない富本吉春が、社長令嬢の妻・エミナを連れて現れる。十四年前に婚約者だった医師・真子を裏切った彼は、「金持ちと結婚した俺だけ幸せでごめんな」と公然と嘲笑するが、真子は静かに「本当にそう思う?」と問い返した。 かつて吉春は、激務の真子に家事と結婚準備を押しつけたうえ、同級生の美雪を自宅へ連れ込み、開き直って婚約を破棄していた。両親に慰謝料まで肩代わりさせた彼と縁を切った真子は、その後、誠実な同級生・小関京介と再会して結婚。京介は倒産寸前の家業を、東証プライム上場企業へ成長させた経営者になっていた。 同窓会場で真子が過去の浮気と卑劣な責任逃れを暴露すると、吉春の虚飾は崩れ始める。そこへ京介が現れ、真子の夫だと判明。さらに吉春の妻エミナは彼を見るなり「小関社長」と青ざめる。物語は、エミナと京介の関係、そして吉春の“勝ち組”という嘘が暴かれる直前で途切れている。夫婦|裡の顔|不倫2.0万字5 639 -
完結第14話
薬を忘れて戻ると、「歩けない」夫が立っていた
腰の手術後、「一人では歩けない」と訴える夫・健太を介護し、毎週末義実家まで送り続けていた佐織。ところが薬を届けるため引き返すと、健太は電話で「嫁は帰った」と告げ、車椅子から何事もなかったように立ち上がった。 夫を尾行した佐織が目にしたのは、金融業者が入る雑居ビルへ元気に歩いて入る姿だった。病院で確認すると、健太は3週間前から自由歩行を許可されており、痛みを誇張して休職を延長していたことも判明する。 さらに健太は450万円の連帯保証債務を抱え、借金返済のため、休職中に会社の機密情報流出へ関わっていた。義母も息子が歩ける事実を隠し、佐織を無給の介護役兼運転手として利用していたのだ。 佐織は夫を庇わず、記録と証拠を会社や弁護士へ提出し、離婚と財産保全の手続きを進める。嘘の車椅子から立ち上がった夫が社会的信用を失う一方、佐織が誰かを背負う生活を終え、自分の足で新しい人生を歩き始める再生物語。夫婦|介護|金銭問題|不倫2.1万字5 467 -
完結第12話
息子の婚約者の母は、20年前の女だった
20年前、夫の不倫によって家を追われ、5歳の息子・健一を一人で育ててきたゆみ。昼も夜も働き続けた息子は医師となり、愛する女性との結婚を決めた。 両家の顔合わせの日、婚約者の母・恵子は、ひとり親家庭を遠回しに見下しながら、上品な笑みを浮かべていた。だが、ゆみの顔を見つめた瞬間、その表情が明らかに変わる。 恵子は、20年前にゆみの夫と関係を持ち、母子を雨の中へ追い出した張本人だった。 化粧室で2人きりになると、恵子は「子どもたちには黙っておきましょう」と口止めする。しかし、ゆみの鞄には、恵子の現在を調べた報告書が入っていた。 そこには多額の借金と不審な金銭の動き、そして「娘の婚約者が医師になった」と周囲へ話す恵子の姿が記されていた。20年前に家庭を壊した女は、今度は息子の人生まで利用しようとしているのか――。真実|親子関係|不倫1.8万字5 2029 -
完結第12話
愛人とタイへ行った夫の10日後
夫の浩司は「タイ出張」と言い残し、10日間家を空けた。 その間、寝たきりの義母の介護を任された由美は、いつものように暴言と呼び鈴に追われる日々を送るはずだった。だが、夫のスマートフォンに残された一通のメッセージから、出張が嘘だったことを知ってしまう。 浩司は若い愛人と海外旅行へ行き、しかも由美の父が残した遺産まで使い込んでいた。 さらに書斎の奥から見つかったのは、すでに署名された離婚届と、愛人からのピンク色の便箋。そこには、由美を介護要員として使い捨てる計画が書かれていた。 28年間、妻として嫁として耐え続けてきた由美は、その日初めて家を出る。 そして10日後。 何も知らずに帰国した浩司を待っていたのは、由美が静かに整えた反撃の場だった――。因果応報|夫婦|不倫|熟年離婚1.8万字5 3589