"判を押さない妻" 第5話
「き先は聞いてませんか」
「さあね。あんた、誰だい」
誰だい。
その問いに、正則は答えられなかった。
夫でもない。
戸籍のでは、父親と名乗る資格もない。
畳のに、蓮の物らしいさな靴が片方だけ忘れられていた。正則はそれを拾い、しばらく握りしめた。
肩をしたの公園が、窓のに見えた気がした。
話は何度かけても、械の声が答えるだけだった。
に帰ると、今度はのが妙に広かった。
卓のに、1枚の置きがあった。
「をます。まいは篠田弁護士まで。婚姻費用は毎25にお願いします。婚届には涯、判を押しません。律子」
正則はその夜のうちに、律子の携帯を鳴らした。
何度目かで、ようやくつながった。
「仁美とは終わった。俺が全部悪い。戻ってきてくれ。やり直そう。夫婦に戻ろう」
話の向こうで、しの沈黙があった。
それから聞き慣れた穏やかな声がした。
「何をおっしゃるの。私たちはずっと夫婦ですよ。これからもね」
「だったら……」
「でも、緒には暮らしません」
正則は息を止めた。
「あなたはこれからも、私の夫として私の暮らしを支えてください。30、私がそうしてきたように」
話は静かに切れた。
正則は誰もいない居にち尽くした。
あの夜の律子の微笑みのが、ようやく骨の髄まで分かった。
あれは未練の微笑みではなかった。
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檻の扉がりた、その音だったのだ。
4が過ぎた。
正則は65歳になり、再雇用の勤めも終わった。
が振り込まれるたび、正則はへった。窓やATMので、決まった振込をする。顔も見られない律子への婚姻費用。もう会うこともできない蓮への養育費。
2つの振込を終えると、通帳の数字はため息のるものになった。
広いには誰の物音もしない。
吉の部は空いたまま。律子が使っていた湯呑みも、いつのにか器棚の奥へ追いやられていた。
正、玄関のチャイムは1度も鳴らなかった。
町内会で顔をわせる々の目に、い膜のようなものをじる。隠し子の噂は、とっくに町を回りしていた。
病院の待で、同代の夫婦が並んで座っているのを見るたび、正則は目を伏せた。妻が夫の診察券を持ち、夫が妻の荷物を支えている。そんなありふれた景が、今の正則にはまぶしすぎた。
類の続柄欄には、今も「妻・律子」とく。
くたびにいらされる。
失っていないのに、何も残っていない。
あるの夕方、正則はスーパーの惣菜売りで、1分のコロッケを買った。レジの若い員が、るい声で尋ねた。
「お箸は何膳ですか」
「1膳で」
そのいやり取りが、その1で番い会話だった。
婚していれば、まだになれた。
になれれば、忘れることもできた。
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けれど律子は妻のままだった。
妻のまま、にはいない。
妻のまま、正則の活に現れない。
妻のまま、毎の婚姻費用だけを正確に受け取る。
仏壇の母の遺ので、正則は膝をついた。
「婚しない方が獄だったよ、おふくろ」
遺のの吉は、何も言わずに微笑んでいた。
その微笑みが、どこか律子のそれに似ていることに、正則は今さら気づいた。
のでは、夕方のが枯れ葉を転がしていた。
正則は仏壇ので、いけなかった。
切にすべきを違えた。
そのことに気づいたには、もう遅かった。
それが、正則の獄だった。
同じ頃、律子は倉敷のを歩いていた。
壁の通りを、彩画の具を抱えた仲たちとゆっくりむ。別居先のマンションで始めた絵の教で、気のう友ができた。に3度の写旅が、今の律子の楽しみになっていた。
「律子さん、次は沢にきましょうよ」
「いいわね。のるに」
「それにしても、律子さんの絵、るくなったわよね。最初の頃はばかり使っていたのに」
「あら、そうだったかしら」
笑いながら、律子はを洗った。
言われてみれば、最の絵にはよくを使うようになっていた。空の。川の。くへ続くの。
宿の窓辺で、律子は絵葉を1枚描いた。
宛先は誰でもない。
旅から帰ると、義母の墓に供えるのが習慣になっていた。
「お母さん、倉敷にってきました。支度、切に使っています」
墓にをわせ、律子は目を閉じた。
議なことに、憎しみはもう胸のどこを探しても見当たらなかった。
正則を罰するためにきているのではない。
正則に縛られないために、判を押さないだけ。
それが、義母がくれた答えだった。
墓を渡るのが、桶の面をさく揺らした。
律子はバッグからさなスケッチブックを取りし、墓の入りにつイチョウのを1枚だけ描いた。夕陽の絵の具で描いたそのは、のでどこまでもまっすぐにっていた。
判を押さない。
それは、相を縛るためだけの選択ではなかった。
自分のを、度と誰かの都で差しさないという、静かな決だった。
律子はスケッチブックを閉じ、墓にさくをげた。
「ってきますね、お母さん」
空はく澄んでいた。
夫婦というのの関係は、まだ続いている。
けれど律子のは、あの夜の卓からではなく、義母のを胸に泣いたから、もう度始まっていた。
正則が獄と呼ぶので、律子はようやく自分ので歩いていた。
婚しないことは、未練ではなかった。
復讐だけでもなかった。
それは、30かけて失った自分を取り戻すための、律子なりの最の答えだった。
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