"台所の外で母になる" 第3話
弘はポケットにを入れた。何かを取りそうとしている。
さくて角いものだった。
「母さん、これ……」
文子の声はかった。
「先に理由を言ってからにして」
弘のが止まった。
弘は取りしかけたものを、そっとポケットに戻した。
「で渡す」
「でって、いつよ」
文子の声は、自分でも驚くほどたかった。
弘は答えず、員を呼んだ。
「すみません。温かいお茶をもう杯お願いします」
優しい。
けれど、文子の目を見ない。
ずっとテーブルのだけを見ている。
「母さん、疲れてない?」
「丈夫」
理由は言わないのに、そういうことは聞くのか。
文子は胸の奥がざらつくのをじた。
弘は計を見た。
「母さん、そろそろえるから……」
その瞬、文子の喉の奥から、言うまいとっていた言葉が漏れた。
「向こうのお母さんとは、楽しそうだったわね」
言った瞬、悔した。
弘の顔が瞬だけ歪んだ。
「ごめん。今のは……」
「いいよ」
弘は静かに言った。
でも、やはり目をわせなかった。
文子はちがった。
「私、帰るね」
「母さん」
弘が何か言おうとした。
けれど、てきたのは別の言葉だった。
「寒いから、マフラーちゃんと巻いて」
今も、それを言うのか。
理由は言えないのに、気遣いは言えるのか。
文子は黙ってをた。
駅へ向かって歩くと、たいが頬に当たった。涙がそうになったが、文子は唇を結んでした。
広告
さっき言った嫌が、喉の奥に刺さっていた。
し歩いたところで、ろから声がした。
「お母さん、待ってください」
美だった。
息を切らせ、文子のに温かいカイロを握らせた。
「すみません。夫の代わりに言わせてください」
「あなたが謝ることじゃないわ」
「でも、聞いてほしいんです」
美は文子のにった。
「の元旦、お母さんが台所でふらっとしたのを、夫は見ていたんです」
文子は瞬きをした。
「え?」
「流し台につかまって、しばらくけなかったの。覚えてますか?」
文子はの元旦をい返した。
覚えていない。
いや、言われてみればちくらみがあったような気もする。でもすぐに収まったから、気にしなかった。
「覚えてないわ」
「夫は見ていたんです。それからずっと言っていました。来は母さんを休ませたいって」
その、ろから音が聞こえた。
弘だった。
弘は文子のでち止まった。
寒さのせいか、それとも緊張のせいか、唇がし震えていた。
「母さん」
文子は何も言えなかった。
弘はく息を吸った。
「のこと、ずっと気になってた。母さんがいつか正に倒れるんじゃないかって」
文子は胸の奥が静かに揺れるのをじた。
「でも、言えなかった。母さん、ふらついたよね、なんて。母さんの事なものを取りげるみたいで」
弘の声は、しずつ震えていった。
広告
「俺、正の母さんの顔、ちゃんと見たことなかった。いつも俺より先に台所にいたから。俺が見てたのは、いつも母さんの背だった」
文子は息を止めた。
「母さんの笑った顔、ちゃんと覚えてないんだ」
弘はようやく、文子の目を見た。
「今は、母さんの顔が見たかった。何もしなくていい所で、緒に座りたかった」
文子は唇を震わせた。
「それなら、そう言ってくれればよかったのに」
「言えなかった」
弘は目を伏せた。
「母さんを傷つける気がして、言葉がなかった」
たいだけが、のを通り抜けていった。
文子は美の実に先にった理由を尋ねるに、弘が言った。
「向こうに先に寄ったのは、母さんをに連れす段取りを相談したんだ。俺じゃ、どう言えばいいか分からなくて」
「そうだったの……」
「今朝の話も、見てた。でもられなかった。たら、何か言わなきゃいけないってったら、指がかなかった」
文子は、自分がふらついたことすら覚えていなかった。
でも弘は見ていた。
文子が見ていなかったものを、ずっと見ていた。
文子は箱ばかり見ていた。
息子の顔を、見ていなかった。
膝から力が抜けた。
自分のにあったのは、りではなかった。
最初からずっと、寂しさだった。
「ごめんね」
文子の声は震えた。
「私こそ、あなたの顔を見てなかった。
台所にばかりって、あなたがどんな顔をしているか見てなかった」
弘は黙っていた。
「さっき、嫌なこと言ってごめんね」
広告
おすすめ作品
-
完結第15話
18年間閉ざされた納屋
31歳の美咲は、博士課程を修了したその日、18年間会えずにいた兄・直のことを確かめるため実家へ向かった。両親からはずっと「兄は施設で暮らしている」「会えば不安定になる」と聞かされ、施設名も住所も教えられていなかった。ところが帰り道、近所の女性から思いがけない一言を聞く。「直君、まだ裏の納屋にいるんだと思ってた」。実家へ駆け戻ると、古い納屋の扉には外側から2つの南京錠。窓は布で覆われ、食器と電気コードには最近まで使われた痕跡が残っていた。そして美咲が「お兄ちゃん」と呼びかけると、扉の向こうから2度、確かな音が返ってきた。18年間、両親は何を隠してきたのか――。兄弟姉妹|親子関係2.2万字5 410 -
完結第15話
妊娠中の娘が逃げ帰った夜、大富豪の母が動いた
妊娠8か月の娘・はるかが、顔に傷を負い、母エリコの家へ逃げ帰ってきた。病院では新しい肋骨の骨折に加え、以前の骨折痕も見つかる。夫・匠による暴力は、一度きりではなかった。 匠は巨大企業グループの創業家の一員。だがエリコはその地位にひるまず、娘の安全を確保し、診断書を残す。同時に信頼する会計士へ調査を頼むと、匠一家が関わる財団に巨額の不正な資金移動の疑いが浮かび上がった。 報道を受けても疑惑を否定し続けた匠は、緊急会見の最中、はるかへの傷害容疑で逮捕される。さらにグループの資金問題にも捜査が及び、権力を盾にしてきた一族は追い詰められていく。 母の行動が事態を動かす一方、すべての始まりにあったのは、はるかが自分とお腹の子を守るため、あの家から逃げ出した決断だった。因果応報|人生逆転|嫁姑|絶縁|親子関係|修羅場2.3万字5 1226 -
完結第15話
車椅子の姑を1年間介護したのに、遺産は1円もいらない嫁が家を出た日
教師の仕事を辞め、右半身に麻痺が残った姑・芳子を365日介護してきた田中綾。芳子の70歳の誕生日会で、36人の親族を前に「家も預金も長男へ。嫁には1円も渡さない」と宣言される。熱い汁で右手を火傷しても、夫が心配したのは200万円の着物だけだった。綾は介護引継書を置き、「遺産はいりません」と家を出る。ところが無償の嫁が消えた翌朝、家族の前には月43万8000円、年525万6000円の介護見積書が突きつけられた。3人の実子は誰が母を支えるのか。そして綾は、失った教師の人生を取り戻せるのか――。嫁姑|親子関係2.0万字5 3108 -
完結第11話
棺の中で眠る娘と、吠え続けた秋田犬
秋田の豪雪地帯で、七歳の少女・雪の葬儀が営まれていた。ところが愛犬ハチだけは棺に向かって激しく吠え、畳を掻き続ける。周囲が狂犬扱いする中、前妻であり元救命看護師の静子は、棺の内側から聞こえる微かな音と、雪の指先の動きを見逃さなかった。 静子が葬儀を止めて棺を開けると、雪には脈と呼吸が残っていた。静子は的確な応急処置を行い、雪はついに「お母さん」と声を発する。無力だと見下していた静子に娘を救われ、後妻エミリーと父・健一は言葉を失う。 しかし、奇跡の生還で物語は終わらない。救急搬送される娘に付き添いながら、静子は「なぜ雪が猛吹雪の夜、裏山へ出たのか」という疑念を抱く。人生逆転|真実|真相|親子関係1.6万字5 702 -
完結第11話
父の葬儀を捨てた夫へ、亡き父が遺した最後の証拠
父の葬儀の読経中、夫のスマホが3度震えた。 「会社で緊急のトラブルがあった」 そう言って席を立った夫は、私の父を見送ることなく姿を消した。 喪主だった私は、何も言えず一人で最後まで葬儀を終えた。 その夜、冷たい家に戻ると、午前2時57分―― 亡くなったはずの父の名前から、メッセージが届いた。 「誰にも言わず、母さんの墓へ行きなさい」 半信半疑で向かった先で、父が残していたものを見つけた。 そこに入っていたのは、夫の知られざる裏切りと、私を守るための証拠だった。 そして私は初めて知った。 父は最後の日まで、私の人生を守ろうとしていたのだ。夫婦|親子関係|修羅場|不倫1.6万字5 480 -
完結第13話
義母に逆らった妻を閉じ込めた夫が、翌朝失ったもの
義母への仕送りを断った夜、菜緒は夫の浩司にトイレへ閉じ込められた。冷たい床で朝を待ちながら姉に助けを求め、夫の発言を録音する。翌朝、姉たちが迎えに来ると、菜緒は「もうこの家には戻らない」と告げた。 避難先で菜緒が止めたのは、義母と義弟への毎月の送金、そして夫に渡していた家族カード。さらに、夫が口走った「部屋の件」を確かめると、菜緒が独身時代に買ったマンションへ、本人に無断で義弟夫婦を住まわせる話が進んでいた。 すでに置かれた荷物を見つけた菜緒は室内を記録し、玄関の鍵を交換する。義母からの抗議にも、援助と部屋の使用を断る意思を伝えた。閉じ込められた夜に握っていたスマートフォンから、菜緒は自分の暮らしを守るために動き始める。嫁姑|絶縁|親子関係|修羅場2.0万字5 1708 -
完結第15話
正月、娘に熱汁を浴びせた義兄へ110番
娘がグラスを1つ割っただけで、義兄は笑いながら熱い汁物を8歳の娘へ浴びせた。 しかも泣き叫ぶ娘を前に、義母も親族も止めるどころか「正月から大げさ」と笑っていた。 夫まで兄を庇い、「今日は丸く収めよう」と私に黙るよう求めてきた。 私は娘の腕を流水で冷やしながら、警察署長を務める実兄へ電話した。 「お兄ちゃん、今度はもう手加減しないで」 だが兄が私に命じたのは、身内の力を使うことではなく、「今すぐ110番して、証拠を全部残せ」ということだった。 その言葉で私は、義実家の天井に防犯カメラがあることを思い出した。 警察が映像を確認した直後、それまで「手が滑っただけ」と笑っていた義兄の顔色が一変する。 そして夫まで知らなかった“決定的な場面”が映っていたことで、あの正月に笑っていた全員の立場がひっくり返り始めた。怒り|嫁姑|親子関係|修羅場2.2万字5 2260 -
完結第12話
入学式の日、愛人を選んだ夫への「お祝い」
娘・美香の入学式当日、夫・健吾は姿を見せなかった。電話をかけると、「愛人と離婚届を出しに来ている」と笑いながら告げ、妻子を捨てて新生活を始めると宣言する。 泣きそうになるカナからスマートフォンを受け取った義母・富美子は、取り乱すどころか静かに微笑んだ。「本当におめでたい日ね。盛大にお祝いしなくちゃ」。その夜、帰宅した健吾を待っていたのは、白いリボンが掛けられた巨大なケーキだった。 しかしケーキの中には、健吾が大切にしていた高級時計や愛人との品々が隠されていた。自らそれらを切り刻んだ健吾へ、富美子は不倫と会社経費の私的流用を示す証拠を突きつけ、カナは離婚条件を記した書類を差し出す。 娘の晴れの日に家族を裏切った男がすべてを失う一方、血のつながらない嫁と孫を守り抜いた義母。三世代の女性が本当の家族として、新しい幸福を築いていく痛快な逆転物語。夫婦|親子関係1.8万字5 1079 -
完結第12話
夜勤明け、鍵を替えられた私の静かな反撃
30時間の夜勤を終えて帰宅した看護師・南を待っていたのは、義母によって交換された玄関の鍵だった。「反省したら土下座しに来なさい」という連絡に、南は「そうですか。では、さようなら」とだけ返信する。 だが、義母と無職の夫は知らなかった。その高級マンションは、南の勤務先が契約する借り上げ社宅であり、家賃も生活費もすべて南の収入で支えられていたのだ。 南は騒がず、締め出しを自白したSNS投稿を保存。社宅の退去手続き、電気・水道・ガスの解約、弁護士への離婚依頼を淡々と進める。月曜日の午後5時、部屋の明かりが消え、管理会社と警察が玄関に現れた。 自分を家政婦のように扱った家族との関係を断ち切り、誇りある仕事と人生を取り戻す女性の、静かで痛快な逆転物語。因果応報|人生逆転|嫁姑|親子関係1.9万字5 4894 -
完結第11話
元警察官の父が娘に渡した一枚の封筒
久しぶりに会った娘・香織の頬に痣を見つけた元警察官の父・誠一。夫の話になると目をそらす娘に、父は勤務先の住所だけを尋ね、それ以上追及しなかった。 一か月後、再び夫に突き飛ばされた香織へ、父は一通の封筒を渡す。中にあったのは夫の秘密ではなく、香織が「大したことではない」と消してきた異変を、日付順に記した一枚の紙だった。 繰り返される暴力と謝罪の連鎖を認めた香織は、初めて「今日は帰らない」と自分で決断する。父は夫を裁くことも、離婚を命じることもせず、娘が自ら選べる安全な場所だけを守り続けた。 これは、父の静かな愛に支えられた女性が、自分の恐怖を否定するのをやめ、失っていた人生と平穏を取り戻していく再生の物語。夫婦|真実|真相|親子関係1.6万字5 741