"龍神窟に眠る約束" 第1話
1995、の終わり。
志摩半島の辺にあるさな漁では、10に1度だけ語られる古い伝説があった。
潮の流れがぴたりとう、龍神窟の奥に隠された秘密の通がく。その先には、普通のでは決して見られないほどきなアワビが群している。の女たちは、それを「アワビ」と呼んでいた。
1つ取れれば、1分の収入に匹敵する。
そんな噂が、昔からのでまことしやかに囁かれていた。
けれど、その所は同に「の」とも呼ばれていた。潮の読みをしでも誤れば、底の岩に体を叩きつけられる。洞窟に入ったまま潮の流れが変われば、を見失う。挑戦した者のうち、きて帰った者はごくわずかだった。
1995828、午523分。
夜けの青い気配がまだ面に残る、で最の腕を持つ5の女が、龍神窟へ向かうため港に集まっていた。
菊池幸子。
恵美子。
伊藤文。
斎藤子。
渡辺義恵。
5はに潜ってきた仲であり、互いの息遣いだけで潮の変化を読めるほど信頼しっていた。
港にはいが漂っていた。の縁には浮き樽が並び、濡れたロープが朝にっている。くでカモメが鳴き、まだ眠っているに、その声だけが細く響いていた。
「今は潮が悪い」
杖をついた徳の婆さんが、港の端から声を張りげた。
で最の元女だった。
広告
若い頃には誰よりもく潜ったと言われる女で、の顔を読む力だけは、今も誰も逆らえなかった。
「くんじゃない。今のは黒い。竜王様がっておる」
徳の婆さんは、しわだらけの顔を険しくして、5のにちはだかった。
しかし恵美子は、浮き樽をに積み込みながら笑った。
「婆さん、そんな寂しいこと言わないでくださいよ。10に1度の会なんですよ」
幸子も、のそばにちながらを見つめた。
潮は静かだった。
あまりにも静かで、逆に気なほどだった。
それでも、幸子たちのは揺れなかった。
に1度の会かもしれない。族のためにも、暮らしのためにも、このを逃すわけにはいかなかった。
港のしれた所では、漁業組のが腕を組んでその様子を見ていた。の漁業を仕切る絶対な権力者で、誰も彼に逆らう者はいなかった。
は、5の港を止めようとはしなかった。
ただ、く笑っていた。
その笑みを見た者は誰もいなかった。
幸子はに乗る、港の片隅につ娘の美咲へ歩み寄った。美咲は10歳。眠そうな目をこすりながらも、母の姿を必に見げていた。
「お母さん、必ず帰ってくる?」
幸子はしゃがみ込み、美咲の髪をそっと撫でた。
「帰ってくるよ。約束する」
その、幸子の元に虹にる貝殻が落ちていた。
広告
幸子はそれを拾い、さなナイフで慎に2つに割った。そして片方を美咲のに握らせた。
「これは美咲の分。こっちはお母さんの分」
幸子はもう片方を自分の胸元にしまった。
「お母さん、これを探しに必ず帰ってくるから。それまでなくしちゃだめよ」
美咲はさな両で貝殻を包み、力く頷いた。
「約束だよ」
はを切り裂くように、ゆっくりと港をれていった。
美咲は、がいので点になり、やがて見えなくなるまで、ずっとを振り続けていた。
それが、母の姿を見た最の朝になるとは、誰もらなかった。
午、空は穏やかだった。
の々は、いつもと変わらぬ1が始まったとっていた。漁師たちは網をえ、女たちは干物を並べ、子どもたちはの終わりの陽射しのをり回っていた。
美咲はの窓辺に座り、母からもらった貝殻を握っていた。
祖母が何度も声をかけた。
「美咲、ご飯をべなさい」
けれど美咲は首を振った。
「お母さんが帰ってきたら緒にべる」
その声には、幼いながらも固い志があった。
しかし午2を過ぎた頃、空のが突然変わった。
ついさっきまで青みを残していた空に、墨を流したような黒いが広がっていった。が港の方から吹きつけ、漁具が音をてて転がった。
「こりゃ、ただのじゃないぞ」
港で網の入れをしていた漁師が、そうに空を見げた。
次の瞬、が荒れ始めた。
波は獣のようにうねり、岸壁に叩きつけられた。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
ガジュマルの根が暴いた夜
2008年夏、京都郊外の古寺で、台風によって1本のガジュマルの老木が倒れた。 むき出しになった根の下から見つかったのは、大人2人と幼い女の子の人骨。そばには、色褪せたピンクのワンピースと、腐食したビジネスバッグが残されていた。 それは15年前、一夜にして姿を消した北村家3人のものだった。 当時、夫の健二は勤務先の建設会社で、不自然な金の流れに気づいていた。だが警察へ告発しようとした直後、妻と幼い娘もろとも消息を絶つ。 なぜ3人は、寺の木の下に埋められていたのか。 バッグの中に残されたフィルム、少女の服に縫われた小さな梅の花、そして15年間沈黙していた男の証言。 刑事・田中恵美が古い証拠を追うにつれ、慈善家として知られる大物会長の仮面が少しずつ崩れていく。 しかし、ガジュマルの根が暴いた真実は、まだ終わりではなかった。 北村家が消された夜、その奥には、誰も触れてはならないさらに深い闇が隠されていた――。ミステリー|行方不明1.7萬字5 22 -
完結第14話
特大おにぎりの恩返し
小学4年生の遠足の日、黒川大雅は「お弁当を忘れた」と笑う同級生・浅川亜美に、祖母が握ってくれた特大の梅干しおにぎりを分けた。 けれど、それはただの忘れ物ではなかった。 給食だけが唯一まともに食べられる日もあった亜美。お風呂にも入れず、空腹を隠して笑っていた彼女の事情を知った大雅の家族は、静かに手を差し伸べる。やがて亜美は祖父母の家へ引き取られ、二人は離ればなれになった。 それから20年後。 建設会社の社長となった大雅の前に、再開発予定地にある「こども食堂」を守ろうとする一人の女性が現れる。 その名は、浅川亜美。 あの日のおにぎりは、ただ空腹を満たしただけではなかった。祖母の優しさと、一人の少女の人生を変えた記憶は、20年の時を越えて、思いがけない形で大雅の前に戻ってくる――。人生逆転|真相2.0萬字5 24 -
完結第10話
Night072の夏
2019年7月、大阪。 16歳の高校生・瀬名ほのかは、学校を出たあと家に帰らなかった。普段なら遅くなる時は必ず連絡を入れる娘。だがその夜、何度電話をかけても、返ってくるのは留守番電話だけだった。 捜査が始まる中、親友の証言から、ほのかがSNSで知り合った謎の人物と会う約束をしていたことが分かる。 相手の名は「Night072」。 優しい言葉でほのかの悩みに寄り添い、「君を理解している」と語り続けたその人物は、本名も顔も分からないまま、巧妙に正体を隠していた。 やがて、大和川で発見された黒い袋が、事件を最悪の方向へ動かしていく。 医学知識を持つ人物。消された通信記録。空き家に残された痕跡。そして、画面の向こうで優しく語りかけていた「Night072」の本当の姿。 ほのかはなぜ狙われたのか。 そして、彼女が最後に信じた相手は、何者だったのか――。ミステリー|行方不明1.5萬字5 267 -
完結第12話
井戸に沈んだ制服
1992年10月、宮城県の山あいの村で、68歳の天野越子が突然姿を消した。 越子はその日、いつものように籠に米と果物、庭の菊を入れ、村外れの寺へ向かった。自宅から寺まではわずか600m。何百回も歩いてきた道で、迷うはずなどなかった。 しかし、越子は寺には着いていなかった。 警察犬は自宅から約100m進んだ場所で、彼女の匂いを見失う。財布も通帳も家に残されたまま、争った跡も、倒れた痕跡もない。まるで、その短い道の途中で忽然と消えたかのようだった。 そして7ヶ月後。 村の古井戸から見つかったのは、40年近く前の女子学生服に包まれた、越子のものと思われる一部の骨だった。 なぜ、寺へ向かっただけの老女が消えたのか。 なぜ、古い制服に包まれていたのか。 捜査線上に浮かんだのは、越子の若い頃を知る一人の元教師だった。 彼の家の地下室で警察が見たものは、この村が長年信じてきた“平穏”を根底から壊すものだった――。ミステリー|行方不明1.7萬字5 187 -
完結第13話
嘘を握った右手
2014年、群馬県の山間部で山わさび畑を営む田中健二が突然姿を消した。 宿舎には通帳も現金も残され、畑の給水設備は止まったまま。几帳面だった健二が、何も告げずに山を離れるはずがなかった。 数日後、農業廃棄物の下から見つかったのは、遮光幕に包まれた健二の姿。右手には、最後まで離さなかった数本の髪が握られていた。 地主の女社長、解雇された若い作業員、秘密の携帯電話、108回の通話記録。 山奥の乾燥倉庫で、あの夜いったい何が起きたのか。 嘘と欲望にまみれた不倫関係が、やがて誰にも消せない証拠を地上へ呼び戻していく――。ミステリー|行方不明1.9萬字5 171 -
完結第11話
五人目の白い靴
2003年夏、琵琶湖のほとりでキャンプをしていた伊藤一家4人が、忽然と姿を消した。 車もテントも荷物もそのまま。財布や鍵、子どもの持ち物まで残されていたのに、家族だけがどこにもいない。唯一、テントの中にあったのは、伊藤家のものではない片方だけの白い運動靴だった。 靴の内側には、消えかけた名前。さらに、長い年月を経て判明した血の痕跡。 捜査は難航し、事件は未解決のまま5年が過ぎる。だが、再鑑定によって白い靴が語り始めたのは、伊藤一家だけではない、もう一人の少女の存在だった。 なぜ、その靴は琵琶湖のテントにあったのか。 そして、5年前から誰にも届かなかった少女の名前とは――。ミステリー|行方不明1.7萬字5 211 -
完結第13話
25年目の自白状
1982年、群馬県安藤市。雑貨店を営む佐藤大吾の9歳の息子・健二が、雨で増水した川のそばで姿を消した。 現場には健二の運動靴が残され、下流では赤い帽子も見つかった。警察は川への転落事故と判断するが、大吾だけは納得できなかった。あの日、黒い車に乗せられた赤い帽子の少年を見たという証言があったからだ。 しかし捜査は進まず、妻の三重子も「私には選択肢がなかった」という謎の言葉を残してこの世を去る。 息子も妻も失った大吾は、それでも25年間、健二の部屋をそのまま残し、帰りを待ち続けた。 そして2007年、差出人不明の黄色い封筒が届く。 そこに書かれていたのは、たった一文。 「あなたの息子は、自分のものではない人生を生きました。」 25年前の川の事故、東京へ消えた黒い車、妻が抱えていた秘密。 すべてがつながった時、父は息子が奪われた本当の理由を知ることになる――。ミステリー|真相|行方不明1.9萬字5 333 -
完結第11話
湖底の白衣
1973年12月、東京で小さなクリニックを営む女医・田中恵美子が突然姿を消した。 患者から深く信頼され、無断で仕事を休むことなど一度もなかった彼女は、その日もいつも通り診察をしていた。ところが午後3時、恵美子は「急な往診に行ってきます」と看護師に告げ、水色のトヨタ・コロナに乗ってクリニックを出たまま戻らなかった。 しかし後に分かったのは、その往診依頼が存在しなかったという事実だった。 部屋に争った跡はなく、生活用品もそのまま。だが、失踪前の彼女には深夜の電話、大きな現金の引き出し、そして誰にも言えない異変があった。 事件か、失踪か、それとも別の理由があったのか。 答えのないまま21年が過ぎた1994年、神奈川県の芦ノ湖で潜水していたダイバーが、湖底に沈む古い車を発見する。 引き上げられた車は、21年前に田中恵美子が乗って消えたトヨタ・コロナだった。 だが車内に、彼女の姿はなかった。 湖底から現れた車、医学書の間に残された手紙、そして失踪直前に彼女が隠していた本当の苦しみ。 誰からも信頼された女医は、あの日なぜ東京を離れ、遠い湖へ向かったのか――。ミステリー|行方不明1.6萬字5 1543 -
完結第13話
消えた女将と800万の通帳
大阪・難波の路地裏で、安くて温かい料理を出す「3000円酒場」。 女将の中村義子は、うどん屋から店を立て直し、常連たちに愛される繁盛店を作り上げた。だがその裏で、働かない夫・武夫に売上を持ち出され、心身ともに追い詰められていた。 やがて義子は店を800万円で手放し、小さな部屋で静かに人生をやり直そうと決意する。 しかし、その金を狙っていたのは夫だけではなかった。店を買った男もまた、思うようにいかない経営に苦しみ、義子へ「金を返せ」と迫るようになる。 そして2009年9月14日。 親友の定食屋で「ありがとう」とだけ残した義子は、その日の夕方、夫と並んで歩く姿を最後に忽然と姿を消した。 夫か、それとも店を買った男か。 2人の容疑者が浮かび上がる中、真相は5年間闇に沈み続ける。 そして2014年秋。大阪から遠く離れた埼玉の荒れ地で、止まっていた時間が突然動き出す――。ミステリー|行方不明1.9萬字5 318