"柿の木の下、三十年の帰郷" 第10話
「座ってべなさい。」
私は座敷に座り、ランプのかりを頼りにうどんをすすった。
麺は柔らかく煮こまれていて、子供の頃にべたのと同じだった。
母は私の向かいに座り、針と糸を取りしてちぎれた着のボタンを縫い始めた。
その縫い目はやはり隙なく綺麗に揃っていた。
私は母に々なことを聞きたかった。
この数どうやって過ごしてきたのか。
たけしのことは体どういうことなのか。
その、その、その目はどうしたのか。
しかしからるのはうどんをすする音だけだった。
ずるずるとすする音と台所の焚きがパチパチとはぜる音だけが響いた。
べ終わり、私は器を台に置いた。
「母さん、帰って来る途でのおじいさんに会ったよ。ちょっとに転んだって聞いた。」
母は俯いたままボタンを縫い続け、「うん」とだけ答えた。
「これからはもう誰にも世話をいかないよ。異願いをしたんだ。県内の駐屯にポストがあってね。ここからでだ。」
母は私をじっと見つめた。
ランプのが母の顔で揺れている。
母はゆっくりと針と糸を置き、髪をかきげていった。
「バカなこと言うんじゃないよ。せっかく幹部になれたのにそんな簡単に異できるもんかい。」
「バカなことじゃない。もう願もしたんだ。」
母の唇がわずかにいたが、声にはならなかった。
広告
俯いて再びボタンを縫い始めた。
しかしそのが震えているのが見えた。
針が滑って指を刺したが母は痛いとも言わなかった。
私はづいてしゃがみ、母のからそっと針と糸を取った。
そして針で刺されたそのたくザラザラしたを両で包み込んだ。
爪のにはまだ畑のが残っていた。
「母さん、歳の、俺が戸籍を持ってこっそりを逃げした、でずっと泣いてたんだろう。」
母は顔を背け、何も発しなかった。
肩が静かに震え始めた。
「あの、ので母の泣き声が聞こえたんだよ。俺はのにしばらくち止まってから自転をらせて発した。派になるまで絶対にこのに顔をせないとって。」
「今、派になったじゃないか。」
私は首を振った。
「何が派なもんか。母さんが転んで怪をしたこともらず、所の男にで嫌な目に遭わされていたことも全然らなかったくせに。」
母は勢いよく顔をげて振り返った。
目は真っ赤に腫れていた。
「誰にいじめられたって、たけしはただが悪いだけだよ。」
「あいつ、母さんをに突きばしたじゃないか。」
母は黙り込んだ。
い沈黙の、ほんのしだけ首を横に振った。
私の胸にくのしかかっていたきながしだけ軽くなった。
だが胸の奥に残ったしこりは完全に取れなかった。
広告
「母さん、これからは絶対ににはしないからな。」
母はもう片方のをげ、私の頬を優しく撫でた。
細い指先が顎の古い傷跡へとなぞっていく。
「随分痩せたね。」
「自官はみんなスリムな体つきになるんだよ。」
「嘘っぱち。テレビにてくる偉い幹部はみんなふっくらしてるよ。」
私はさく笑った。
母もし笑みを浮かべた。
台所の油ストーブの灯油が切れかけ、赤いが細くさく揺れていた。
私はちがって庭へ、さっき面に落とした菓子の袋とダウンコートを拾った。
菓子は半分潰れ、コートの表面にが付着していた。
私はパンパンとのを払った。
母も台所の入りにち、私が庭の荷物を片付ける姿を黙って見ていた。
その夜、私たち親子は夜遅くまで話し込んだ。
子供の頃のい、母が若く元気だった頃の話、くにくなった父のこと、先に逝ったおじさんのこと、変わったの様子、町にしく敷かれたの話。
母はもともと数がなく、ほとんどは私が話し、母は黙ってを傾けていた。
このの来事を話せる範囲で端折って話した。
厳しい訓練のこと、幹部候補の学のこと、隊を率いた々のこと。
辛すぎた期やきな怪を負った経験については切話さなかった。
夜更けが過ぎ、母は疲れが限界に達し、壁にもたれたまま眠り始めた。
私は持ってきたダウンコートを広げ、そっと母の肩にかけた。
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
鬼母の末路
3年ぶりにドイツから帰国した俺を待っていたのは、温かい食卓ではなかった。 真っ暗な部屋。止まった電気。震える妻。 そして、7歳の娘が笑って差し出したのは、お湯をかけただけの白米だった。 毎月50万円。 家族のために送り続けた金は、どこへ消えたのか。 その夜、俺は知ることになる。 家族を地獄に落としていたのは、他人ではなく――俺の実の母だった。怒り|祖父母と孫|兄弟姉妹|嫁姑|夫婦|親子関係3.4萬字5 71 -
完結第20話
黒いゴミ袋に詰まった十五年
離婚の日、義実家を出る私に義父が一袋のゴミを渡した。 「捨ててから行け」と冷たく告げられ、私は何も問わず黙ってその黒い袋を受け取った。 家を離れ、人目のない公園のベンチで袋を開けた数分後、私は中身を見て完全に声を失った。 そこに詰まっていたのは、十五年間誰にも顧みられなかった私の全てだった。怒り|祖父母と孫|兄弟姉妹|嫁姑|夫婦|絶縁|親子関係3.0萬字5 90 -
完結第7話
三つの 5 歳、路地に埋もれた二十年
名古屋の路地に埋もれた、20年の沈黙。 1992年真冬の夜、5歳の三つ子兄弟が忽然と姿を消した。 寒さが刺す暗い路地、閉まるはずのない玄関の隙間、 証人は次々と供述を翻し、手がかりは現れては消える。 最も孫を愛していたはずの祖母、 沈黙を貫く父、直感で全てを悟った母。 町の誰もが何かを知っていた。 ただ、誰も口にしなかった。 20年後、重機が土を掘り起こした瞬間、 地中に眠っていた小さな真実が、ついに目を覚ます。 愛が狂った時、悲劇は最も静かに訪れる。 未解決に見えた昭和最後の怪事件、 隠された家族の闇と、20年間の偽りの沈黙を紐解く。裡切られた|裡の顔|遺體発見|行方不明1.1萬字5 112 -
完結第11話
ニューヨークへ消えた妻
離婚届に判を押してから、わずか10分後。 佐藤美希は、6歳の娘と3歳の息子を連れ、ニューヨーク行きの飛行機に乗っていた。 夫・優斗は若い愛人の出産に付き添い、義母はその産後の世話に夢中。田中家の誰も、美希がすでに家を出る準備を終えていたことに気づいていなかった。 不倫、見下し、義両親からの冷たい言葉。8年間の結婚生活で少しずつ居場所を失っていった美希は、泣き叫ぶ代わりに、英語を学び、仕事を見つけ、子どもたちと生きるための道を静かに整えていた。 そして彼女が日本を離れた直後、田中家が大切に迎え入れた“後継ぎ”をめぐって、思いもよらない疑惑が浮上する。 愛人が産んだ子は本当に夫の子なのか。 崩れていく夫の会社、泣き叫ぶ義母、そして海を越えて届いた謝罪の手紙。 すべてを捨てたはずの美希の前に、過去はもう一度姿を現す。 これは、裏切られた妻が復讐ではなく覚悟を選び、子どもたちと新しい人生を取り戻す物語。因果応報|人生逆転1.7萬字5 20 -
完結第33話
半纏に縫われた遺言
夫に先立たれ、浅草の小さな仕立て屋を1人で守ってきた76歳の佐々木千代。 ある日、息子夫婦は「温泉リゾートへ連れていく」と言って、千代を車に乗せた。だが向かった先は箱根ではなく、山中にある古びた介護施設だった。 携帯を奪われ、認知症の疑いがある老人として閉じ込められた千代。息子夫婦の本当の狙いは、浅草の土地と預金を奪うことだった。 けれど千代は、ただの弱い老人ではなかった。 亡き夫が生前、黒い半纏の裏地に縫い込んでいた“あるもの”。そして、千代のポケットから次々と出てくる証拠の数々。 夫が残した最後の仕掛けが、裏切った息子夫婦と悪質な施設のすべてを崩していく――。親子関係|介護|金銭問題4.9萬字5 5 -
完結第28話
19 年間富豪を守り 23 回命を救った俺、退職金たった 3 万円。雇い主のメッセージに全身凍る
19 年もの長きにわたり、有名大富豪の身辺警護を担う専属ボディガード。 銃撃、襲撃、誘拐危機…… 合わせて 23 回、雇主の命を自分の身を挺して守り抜いた。 命懸けで尽くした 19 年の報酬が、たった 3 万円の退職金だけだった。 絶望しながら家へ帰り、スマホを開くと 63 歳の元雇い主から突然メッセージが届く。 画面に浮かんだ内容を目にした瞬間、俺は完全に動けなくなり、全身が凍りついた……人生逆転|第二の人生4.1萬字5 101 -
完結第14話
眠らされた妻の録音
義実家へ食事に行くたび、私はなぜか異常なほど深い眠りに落ちていた。 目を覚ますと、ブラウスのボタンがずれている。口紅は消え、腕には誰かに触れられたような跡が残っている。夫の優斗は、いつも「低血糖だよ」「疲れてるだけ」と笑ってごまかした。 けれど、同じことが何度も続いた時、私はようやく気づく。 眠っている間に、何かが起きている。 夫を疑いたくなかった私は、義実家でこっそり録音機と小型カメラを仕掛けた。そして次の食事会で、いつものように眠ったふりをする。 客間のドアが外からロックされ、廊下から男たちの足音が近づいてきた。 録音ファイルに残っていたのは、夫と義父、そして見知らぬ男たちの声。 「前回より薬の効きが強い」 その瞬間、私はすべてを悟った。 優しかった夫の笑顔も、義母の気遣いも、義父の親切も、すべては私を逃がさないための罠だった。 閉ざされた義実家の客間で、私は初めて本当の恐怖と向き合うことになる――。怒り|絶縁|修羅場2.1萬字5 36 -
完結第5話
高性能の魔物 時速 268km が奪った二人の命
【時速 268km、首都高湾岸線の悪夢】 5000 万円のポルシェ 911GT2RS。 ナンバープレートを外し、制限速度 80km の公道を新幹線並みのスピードで暴走した資産家。 葬儀へ向かう 70 代夫婦のトヨタ BB に追突。 相対速度 188km の衝撃で車体は紙のように潰れ、優しい夫婦はその場で命を落とした。 加害者は車の高性能に守られ軽傷、事故 5 秒前までアクセルを踏み続けていたという事実。 逮捕から起訴まで 2 年 4 ヶ月、今も続く長引く裁判、格差と交通法の限界を描いた衝撃ノンフィクション『高性能の魔物 時速 268km が奪った二人の命』。 「高性能車の性能はサーキットだけのもの。公道では誰の命も軽視してはいけない」 全ドライバーに読んでほしい一冊です。怒り|遺體発見6.6千字5 285 -
完結第6話
カラストンネルの失われた未来――12 キロの煽り運転が奪った二つの命
【1億6500万円の賠償金が語る真実】 執拗に車間距離を詰め、何度も蛇行運転を繰り返した大型トラック運転手。 たった一瞬の怒りと苛立ちが、幸せな家族の未来を完全に奪い去った―― 2007年2月1日、秋田県・桂巣(カラス)トンネル。 生後11ヶ月の幼い息子を乗せ、初めての誕生日プレゼントを買いに向かっていた21歳の若い家族。 穏やかな雪の午後は、時速100kmの正面衝突によって一瞬で地獄と化した。 トラックの圧倒的な重量により軽自動車は完全に圧壊。 若き父親と赤ん坊の二つの命が、このトンネルで永久に失われた。 当時の法律では「煽り運転」は認められず、刑事裁判では悪質な行為が見逃された。 無念を抱いた遺族は長い闘いを続け、ついに1億6500万円という莫大な損害賠償判決を勝ち取る。 この事件は、日本の妨害運転法が生まれるきっかけとなった歴史的判例であり、 今も多くのドライバーに警鐘を鳴らし続けている。 しかし、裁判記録にも現れないトンネルの真実が、まだ隠されている――因果応報|怒り|遺體発見8.3千字5 239 -
完結第23話
40.4℃の真実
40.4℃の高熱で救急搬送された、二十歳の女子大学生。 医師は最初、ただの重い感染症だと思っていた。 しかし、診察のために服を少しめくった、その瞬間――診察室の空気は凍りつく。 彼女の身体には、病気では説明できない痕跡が残されていた。 なぜ誰も気づけなかったのか。 彼女は誰にも助けを求められなかったのか。 そして、彼女が涙を流しながら口にした「脅迫されました」という一言が、事件を思いもよらない方向へ動かしていく。 真実を追う刑事。 娘を守ろうとする両親。 そして、権力と金を持つ一人の男。 ページをめくるたびに新たな疑惑が生まれ、最後まで真相が読めない医療サスペンスです。 あなたなら、この事件の真犯人が誰だと思いますか?人生逆転|真実|裡の顔|真相3.5萬字5 166