"柿の木の下、三十年の帰郷" 第14話
バカなこと言うんじゃないよ。せっかく幹部になれたのにそんな簡単に移できるもんかい。バカなことじゃない。もう聖もしたんだ。母の唇がわずかにいたが、声にはならなかった。
俯いて再びボタンを縫い始めた。しかしそのが震えているのが見えた。針がはぐれて指を刺したが母は痛いとも言わなかった。私はづいて寄り添い、母のからそっと針と糸を取った。そして針で刺したそのを両で包み込んだ。たくザラザラとしていて、爪のにはまだが残っていた。母さん、17 歳の、俺が戸籍を持って逃げた、で泣いてたんだろう。母は顔を背向け、何も言わなかった。肩がまた震え始めた。あの鳴き声が聞こえたんだよ。のでしばらくち止まってから発したんだ。派になるまでは絶対に顔を見せられないとった。派になったじゃないか。私は首を振った。何が派なもんか。母さんが転んで怪をしたこともらず、でいじめられていたこともらなかったのに、母は勢いよく振り返った。目は真っ赤だった。
誰がいじめられたってたけしはが悪いだけだよ。あいつ母さんを突きばしたじゃないか。母は黙り込んだ。しばらくしてほんのわずかに首を振った。私のにのしかかっていたきながしだけ軽くなった。
広告
でも胸の奥のしこりはまだ取れなかった。母さん、もう絶対に 1 にはさせないからな。母はもう片方のをあげ、私の顔を撫でた。指先が顎から傷跡へとなぞっていく。随分痩せたね。自官はみんなスリムなんだよ。嘘しい。テレビにてる偉いはみんなふっくらしてるよ。私は笑い、母も笑った。台所のストーブの灯油が切れかけ、赤いがさく揺れた。
私はちがり庭にてさっき落とした桃とダウンコートを拾った。桃は半分潰れ、コートにはがついていた。私はパンパンとを払った。母も台所の入りにち、私が庭を片付けるのを見ていた。
その夜私たち親子は夜遅くまで話し込んだ。子供の頃の話、母の若かった頃の話、父のこと、おじさんのこと、が変わったこと、町にしいができたこと。母は数がなく、ほとんどは私が話し、母が聞いていた。この 20 の来事を話せる範囲でつまんで話した。訓練のこと、学のこと、同僚のこと、辛いや怪をしたのことは切話さなかった。眠くになり、母は耐えきれずに壁にもたれて眠りを始めた。私はコートを広げ、そっと母にかけた。母はしを縮め、寝言のようにかないで遅れと呟いた。かないよと答えたが母はすでにい眠りに落ちていた。私は布団の横に座り母の寝顔を見つめた。
広告
子供の頃私がをした、母がこうして私を見守ってくれたのと同じように。今はが逆転している。窓のでが吹き々の葉がざめく音がした。
その向こうには真っ暗なが広がっている。はたけしのにかなければならない。直接はっきりと言っておく必がある。庭の入れもしたいし、の扉も直さなければ台所の根の瓦も何枚か緩んでいる。もうし先になれば移の続きや引っ越し先の探しもある。でも焦ることはない。考えればいい。窓の寝息がしずつ静かになり始めた。夜けがい。鶏の鳴き声が聞こえた。私はちがり台所へってを起こしお湯を沸かした。20 のあの朝と同じようにガチャガチャと音をてながら薪が勢いよく燃えがる。
はまだ暗く炎が鍋の底を舐めるように燃えていた。私はしゃがみ込み焚きをくべた。鍋のお湯がグツグツと湧き、いい匂いが漂ってくる。で 2 度目の鶏が鳴きのあちこちでがきす気配がした。母が布団から起きがり私を呼んだ。私が台所から返事をすると靴を履いて歩いてくる音が聞こえた。歩また歩。母は入りにち、炉のにしゃがむ私を見てでも見ているかのように瞬ち尽くした。できたよ。私は器にお湯を注ぎテーブルに運んだ。
母は棚から漬け物をし、さく切って皿に乗せた。さらに卵を 2 つ持ってきた。漬け物だけで分だよ。そんな気を使わなくていいのに。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
聖火と十円玉
昭和39年10月10日。東京オリンピック開会式の朝、町中が歴史的な一日に浮き立つ中、大田区の小さな町工場では、職人・佐伯正治がいつも通り旋盤の前に立っていた。 急ぎの部品6個を仕上げ、「俺が届けてくる」と自転車で工場を出た正治。取引先には確かに到着し、部品も無事に渡していた。 しかし、その後、彼は家にも工場にも戻らなかった。 妻も仲間も警察も行方を探す中、正治は4日間姿を消す。そして4日目の朝、髭を伸ばし、汚れた上着のまま、左手に包帯を巻いて工場へ戻ってきた。 彼が作業台に置いたのは、1枚の病院の領収書。 東京中が聖火を見つめていたあの日、名もなき職人はどこで何をしていたのか。 歴史には残らなかった、けれど誰かの人生を確かに支えた、昭和の小さな選択の物語。人生逆転|真相1.6萬字5 271 -
完結第10話
終電の風呂敷
昭和36年の冬、東京郊外の小さな私鉄駅に、毎晩必ず終電だけに乗る老婦人がいた。 午後11時38分。灰色の着物に黒い羽織、そして胸に抱えた紺色の風呂敷包み。彼女はいつも同じ時間に現れ、同じ行き先――工場前駅までの切符を買っていく。 昼間には一度も姿を見せず、帰りの切符も買わない。翌朝戻ってくる姿を見た者もいない。それなのに、次の夜になると、老婦人はまた何事もなかったように駅へ現れる。 若い駅員・高木修一は、次第にその風呂敷の中身と、彼女が毎晩終電に乗る理由が気になっていく。 そして小雪の降る夜、高木は初めて老婦人の後を追った。 終電の先にあったのは、眠らない工場街と、夜勤を終えて戻ってくる幼い少女たちの姿。老婦人が風呂敷をほどいた時、高木はようやく知ることになる。 彼女が毎晩運んでいたのは、ただの荷物ではなかった。 誰にも頼まれず、名前も残さず、昭和の片隅でそっと続けられていた小さな恩返し。その温もりが、時代を越えて誰かの心に受け継がれていく――。人生逆転|真相1.4萬字5 2150 -
完結第14話
18万円の甘い嘘
62歳の桂木節子は、夫を亡くしてから一人、わずかな年金と弁当工場のパート代で暮らしていた。 暖房代も食費も削り、1円の無駄も許さず生きてきた彼女。そんな節子がある夜、帰りたくない寂しさに押され、新宿のホストクラブの扉を開けてしまう。 そこで出会った若いホスト・涼介は、荒れた手を見て「素敵ですね」と微笑んだ。 誰にも褒められず、誰にも必要とされない日々の中で、その一言は節子の心を簡単に揺らした。最初は一度だけのつもりだった。けれど、優しい電話、甘い言葉、「特別」という囁きに、彼女の生活は少しずつ壊れていく。 貯金は消え、借金が増え、仕事も失いかけた時、節子はようやく気づく。 自分が本当に求めていたのは、若い男の笑顔だったのか。 それとも、ずっと言えなかった「寂しい」という一言だったのか――。ATM扱い|金銭問題2.1萬字5 612 -
完結第12話
7階に戻るな
70歳の高橋恵子は、夫を亡くしてから6年、都心のマンションで静かに暮らしていた。 ある夕方、いつものように買い物帰りのエレベーターに乗った彼女は、隣人の老人・木村から一枚の紙切れを渡される。 「病気のふりをして、次の階で降りろ。絶対に7階へ戻るな」 意味も分からないまま指示に従った直後、エレベーターの中で木村は命を落とす。さらに残された紙には、「このマンションでは、誰も信じるな」と書かれていた。 なぜ木村は恵子を逃がしたのか。なぜ7階へ戻ってはいけなかったのか。 やがて事件は、6年前に事故死したはずの夫・優一郎の死、息子夫婦の秘密、そしてマンションから消された5分間へとつながっていく。 たった一枚の紙切れが、穏やかな老後に隠されていた真実を暴き出す――。因果応報|人生逆転1.8萬字5 639 -
完結第14話
銀行にいた偽妻
60歳の斎藤かよ子は、夫・剣一を大阪出張へ送り出したはずだった。 しかし午前11時17分、銀行から一本の電話が入る。 「ご主人が、奥様と同じ名前の若い女性と一緒に来店されています」 その女性は、かよ子の名前を名乗り、住所や生年月日、家族の情報まで正確に答えていた。しかも夫は、その女を自分の妻として銀行に紹介し、かよ子名義の資産に関わる重要な手続きを進めようとしていた。 ただの浮気ではない。夫は、かよ子の服装、癖、署名、人生の記録までも利用し、“もう1人の妻”を作り上げていた。 37年間信じてきた夫が、本当に奪おうとしていたものは財産だけだったのか。 そして、何も知らない妻を演じ続けたかよ子が、最後に銀行で見せた反撃とは――。人生逆転|夫婦2.1萬字5 761 -
完結第12話
捨てられた夏の肖像
次女・夏が生まれた日、夫は赤ん坊の顔を見るなり言い放った。 「この子は俺の子じゃない」 長女は夫にそっくりなのに、次女はまったく似ていない。たったそれだけの理由で、私は浮気を疑われ、DNA鑑定で親子関係が証明されても、夫と義母は夏を認めようとしなかった。 そして私は、生まれたばかりの次女だけを連れて家を追い出される。 残された長女には会えないまま、10年が過ぎた。 ところがある日、成長した夏とショッピングモールを歩いていた私は、夫と義母、そして長女と偶然再会する。 そこで彼らは、夏の姿を見て言葉を失った。 10年前、「他所の子」と罵られた次女には、彼らが知らない大きな秘密があった――。因果応報|人生逆転1.8萬字5 636 -
完結第13話
青いチョーク
63歳の田中澄江は、夫を亡くしてから2年間、午後4時になると必ず家を出るようになっていた。 夕方の光が差し込む居間には、亡き夫の湯呑みと、言葉にできない寂しさだけが残っていた。そんなある日、取り壊し前の小学校の前で、澄江は一本の青いチョークを拾う。 何気なく引いた一本の線。灰色の壁に描いた小さな青い四角。 それはただの落書きのはずだった。けれど、その壁に一人の少年が現れ、やがて子どもたちや町の人々が少しずつ色を足していく。 消えては描かれ、また雨に流されるチョークの絵。 夫を失った悲しみの中で止まっていた澄江の午後4時は、いつしか少しずつ違う色を持ち始める。 一本の青いチョークが、空白になった人生に静かな線を引いていく物語。人生逆転1.9萬字5 180 -
完結第10話
「子なし」離婚の大誤算
離婚届に署名した日、木村さゆのお腹には、まだ誰にも知られていない3か月の命があった。 夫・渡辺健二は初恋の女性との再婚に夢中で、離婚協議書には「婚姻中の子なし」と記されていた。さゆは妊娠を告げることなく、静かに名前を書き、夫の前から姿を消す。 それから10年。 さゆは一人で息子・陸を育てながら、写真館「時」を成功させ、母としても写真家としても自分の人生を築いていた。 しかし、陸の卒業式の日、思いがけず健二と再会する。 壇上で花束を渡す陸の顔を見た瞬間、健二は凍りついた。目元、鼻筋、横顔――そこには、10年前に自分が切り捨てたはずの結婚の答えがあった。 失われた10年は、金で取り戻せるのか。 父親を名乗る資格とは何か。 初恋を選んだ男が、初めて自分の過ちと向き合う時、さゆと陸が選ぶ未来とは――。人生逆転|夫婦1.5萬字5 196 -
完結第11話
保険金つき同居
夫を亡くし、一人暮らしを続けていた70歳の渡辺みよ子。 息子夫婦から「もう一人で頑張らなくていい」と言われ、長年暮らした家を売り、その1500万円を新居の購入資金に充てて同居を始めた。 最初は、家族に囲まれた穏やかな老後が始まるはずだった。 しかし2ヶ月も経たないうちに、生活費の負担、食事の制限、通帳の管理要求……みよ子の居場所は少しずつ奪われていく。 そんなある日、ゴミの中から見つけたのは、自分を被保険者にした生命保険の書類だった。 そして深夜1時。 二階の寝室から聞こえてきた息子夫婦の会話で、みよ子はすべてを知る。 家族だと思っていた人たちは、いつから自分の老後ではなく、自分の財産を見ていたのか。 震える手で録音ボタンを押したその夜から、70歳の母の静かな反撃が始まった。人生逆転|親子関係1.7萬字5 367 -
連載中第13話
20億追放妻の封筒逆転
斎藤グループ創業家の長男と結婚して5年。跡継ぎを望まれながらも子どもに恵まれず、結菜は義実家の視線に耐え続けていた。 そんなある日、夫の愛人が妊娠したことを知らされる。しかも相手の女性は双子を身ごもっていた。義父母は結菜に離婚合意書を差し出し、20億円と引き換えに日本を出るよう命じる。 家族だと思っていた場所から、金で追い出されることになった結菜。だが署名の直前、彼女は誰にも言えない“ある事実”を知る。 何も告げず海外へ渡った結菜と、愛人との結婚式を迎えようとする元夫。 すべてが斎藤家の思い通りに進むはずだったその日、式場に一通の封筒が届く。 そこに記されていた真実が、夫と愛人の未来、そして斎藤家の後継者計画を静かに崩していく――。因果応報|人生逆転|不倫2.0萬字5 2516