"母が着続けた一枚の着物" 第1話
昭45。
方のさな町では、正になると着物姿で神社へ向かう女性たちの姿が、まだ当たりのように見られた。商の奥にある古いにも、元旦の朝になると決まって同じ景が広がっていた。佐藤の母・子は、静かに押し入れをけ、奥にしまってある桐の箱を取りすのである。
箱のに入っているのは、枚の紺の着物だった。鮮やかなではなく、いをねたことでしあせている。袖には何度も縫い直した跡があり、くで見れば見るほど、この着物が切に扱われてきたが伝わってきた。
子がその着物を着るようになって、すでに20以が過ぎていた。流が変わり、しい柄の着物が先に並ぶようになっても、母は毎同じ枚を選んだ。
娘の美紀は、その姿を見るたびに複雑な気持ちになっていた。
同じ町にむ同級の母親たちは、正になるとしい着物を着ていた。写真を撮れば、赤や、るい柄の着物が並び、華やかな雰囲気になる。それに比べて、自分の母親だけは、いつも古びた紺の着物だった。
になった頃、美紀は何度も母に言った。
「お母さん、もうその着物やめたら?」
「今はい着物だってあるじゃない」
しかし子はることもなく、たださく笑った。
「まだ着られるからね」
広告
それ以、母は何も説しなかった。
美紀には、その理由が分からなかった。母はただ節約しているだけなのだとっていた。古い物を捨てられない性格で、必なおまでしているのだと。
父親は町で働いていた。裕福な庭ではなかったが、活に困るほどではなかった。毎しずつ貯をしており、には最限のも揃っていた。
昭45頃になると、所ではしいテレビを買うも増えていた。蔵庫や洗濯がある庭も珍しくなくなり、々の暮らしはしずつ豊かになっていた。
だから美紀はっていた。
母はただ「もったいない」という理由だけで、しているのだと。
その考えが変わる来事が起きたのは、昭45のだった。
美紀は結婚することになった。
で度きりの切な。族や親戚が集まり、娘のれ姿を祝うだった。
結婚式当の朝、子はいつものように桐箱をけた。そして、あの紺の着物を取りした。
その姿を見た瞬、美紀の胸にさな違が広がった。
そして、わずにしてしまった。
「お願いだから、その着物だけはやめて」
子のが止まった。
「どうして?」
母は議そうに娘を見た。
美紀はすぐに理由を言えなかった。
本当は分かっていた。
相の親戚や参列者に、古い着物を着た母親を見られるのが恥ずかしかったのだ。
広告
母が貧しいのだとわれることが嫌だった。
「だって……今は私の結婚式なのに」
美紀は、それ以言葉にできなかった。
子はしばらく黙っていた。
やがて、し寂しそうに笑った。
「分かったよ」
その、子はその着物を着なかった。
娘の切なだから。
母は何も責めることなく、控えめなを選び、静かに式へ向かった。
美紀はその、母の表の奥にあるものに気づかなかった。
それから数のが流れた。
美紀自も結婚し、2の子どもの母になった。
そして昭60の。
母・子は静かにこの世をった。
葬儀が終わった、美紀はで実の片付けをしていた。幼い頃から見慣れた具、古い器、母が切にしていた物。
つひとつに取るたび、族と過ごしたが蘇ってきた。
押し入れの奥には、あの桐箱が残されていた。
美紀は箱をけた。
には、あの紺の着物が入っていた。
「もう、処分してもいいよね……」
そう呟きながら、着物を畳もうとしただった。
内側の布に、見慣れない刺繍があることに気づいた。
さな文字だった。
「本節子」
美紀は眉をひそめた。
母の名ではない。
祖母の名でもない。
体、誰の名なのか分からなかった。
その夜、美紀は所にむ母の古い友を訪ねた。
「節子さんって、誰ですか?」
その名を聞いた瞬、女性の表が変わった。
しばらく沈黙した、彼女は静かに答えた。
「あなたのお母さん……最まで言わなかったのね」
広告
おすすめ作品
-
完結第10話
白いハンカチの約束
昭和47年、東京郊外の団地。 3号棟の4階に住む老夫婦は、毎朝7時になると、ベランダに真っ白なハンカチを一枚だけ出していた。 洗濯物を干さない日も、雨が降りそうな日も、そのハンカチだけは必ず揺れている。近所の子どもたちは不思議がり、「誰かへの合図ではないか」と噂した。 けれど、その白い布を毎朝じっと見つめていたのは、向かいの棟で一人暮らしをする老女だった。 ある冬の朝、いつもの時間になっても白いハンカチが出なかった。 ただそれだけの異変に、老女は胸騒ぎを覚え、急いで部屋を飛び出す。 電話もない時代、近すぎず、遠すぎず、互いの暮らしをそっと見守っていた人たち。 一枚の白いハンカチに込められていた、昭和の団地の小さな約束の物語。昭和1.4萬字5 266 -
完結第10話
赤いバイクと最後の新聞
昭和50年、岐阜県の山あいに、全校児童がわずか3人だけの小さな分校があった。 給食もなく、冬は石油ストーブを囲んで授業を受けるような古い木造校舎。そんな子どもたちが毎朝楽しみにしていたのは、山の外の世界を伝えてくれる一部の新聞だった。 ところが、その分校は翌年3月で閉校することが決まる。教材も雑誌も次々と止まり、子ども新聞の購読も打ち切られた。 それでも、59歳の郵便配達員・田所信一は、雪の山道を越えて毎朝新聞を届け続けた。 誰も頼んでいない。もう学校も終わる。たった3人の子どものために、なぜそこまでするのか。 分校最後の日、子どもたちは初めて知ることになる。 田所が守ろうとしていたのは、新聞そのものではなかった――。昭和1.5萬字5 156 -
完結第11話
余ったパンの嘘
昭和43年、東京近郊の古い木造小学校。 5年生の担任・村上昭一には、子どもたちが気になって仕方ない習慣があった。給食の時間になると、牛乳とおかずは食べるのに、コッペパンだけは毎日ほとんど口にしない。そしてそれを紙に包み、古びた革鞄の中へそっとしまうのだ。 「先生、今日も持って帰るの?」 子どもたちが尋ねても、村上はただ「腹いっぱいなんだよ」と笑うだけだった。 けれど、毎日続くその行動には、誰にも言えない理由があった。 ある放課後、どうしても気になった3人の男子は、先生の後をつけることにする。黒い自転車で工場町を抜け、川沿いの砂利道を進んだ先にあったのは、河川敷に建つ小さな家だった。 そこで子どもたちは、先生がなぜ「余った」と言い続けていたのかを知る。 1本のコッペパンに込められていたのは、ただの親切ではなかった。相手の誇りまで守ろうとした、静かな優しさだった。昭和1.6萬字5 1030 -
完結第11話
母に届かなかった10円
昭和55年、駅前の公衆電話の横に、毎月25日だけ10円玉が一枚置かれるようになった。 落とし物にしては場所が不自然で、誰が置いているのかも分からない。新聞売りの森田は、毎月同じ日に現れるその小さな硬貨を不思議に思い、やがて駅前の子どもたちもそれを「10円の日」と呼ぶようになる。 そんなある冬の朝、森田はついに10円玉を置く女性の姿を見つける。 なぜ彼女は、誰にも知られないように毎月10円玉を置き続けていたのか。 その理由は、何十年も前、たった一枚の10円玉がなかったためにかけられなかった「あの日の電話」に隠されていた――。昭和|親子関係1.6萬字5 350 -
完結第10話
売らなかった紙
昭和48年、オイルショックの不安が日本中を包み、商店街から次々と日用品が消えていった。 大阪の小さな乾物屋「丸福商店」にも、ある日、待ち望まれていたトイレットペーパーが入荷する。店先にはたちまち人が集まり、誰もが一つでも多く手に入れようとした。 ところが店主・福田源蔵は、奥に在庫があるにもかかわらず、こう貼り出す。 「本日、トイレットペーパーは販売いたしません」 客たちは怒り、源蔵を責めた。値上げするつもりなのか、隠しているのか、商売人としてひどいのではないか――。長年の常連までもが、冷たい言葉を残して店を去っていく。 それでも源蔵は、最後まで売らなかった。 その夜、店のシャッターが下りた後、彼は誰にも言わず、自転車の荷台に白い包みを積み始める。 売らなかったのは、儲けるためではなかった。 あの夜、源蔵が本当に守ろうとしていたものは、棚の商品ではなく、この町に残る小さな信用だった。昭和1.5萬字5 1922