"預かったままの革靴" 第10話
健はそのことを、自分のそのものでっていた。
それから健は、に来る若い職たちへ、技術だけではなく「物を預かる」ということについても話すようになった。
客が持ち込むの靴には、そのにしか分からないが染み込んでいる。値段のい靴だから切なのではなく、誰かと歩いたや、忘れたくない記憶が残っているからこそ、捨てられない靴もあるのだと健は考えていた。
「古いからって、勝にしく見せようとするなよ」
若い職が修理した靴を確認しながら、健はよくそう言った。
「傷を全部消せばいいわけじゃない。そのが残してほしい傷だってあるんだ」
そう言いながら、健自がい浮かべているのは、いつも棚のにある黒い革靴だった。
のつま先のい傷。
何度入れをしても、その部分だけは残した。
あの傷を見れば、のを歩いてきた男の元がいせる。あの靴が品のようになってしまえば、自分が9歳だったの記憶までしずつれてしまうような気がした。
昭21の。
健には、将来という言葉のさえよく分かっていなかった。
の仕事があるか。
今夜眠る所があるか。
腹いっぱいべられるはいつ来るのか。
考えていたのは、それくらいだった。
そんなに、あの男は派な言葉を残したわけではない。
広告
「頑張れ」とも言わなかった。
「派なになれ」とも言わなかった。
ただ自分の革靴を脱ぎ、「預かってくれ」と言っただけだった。
けれど健にとっては、その曖昧な約束があったからこそ、次のも駅へく理由のつになった。
もしかしたら今、あのが来るかもしれない。
だったら靴をきれいにしておかなければならない。
もっとに磨けるようになりたい。
傷んだところも直せるようになりたい。
そのさな気持ちが、何も積みなった。
のが変わるきっかけというものは、そのには分からないのかもしれない。
きな決断でもなければ、誰かから与えられた派な教えでもない。
のに置いていかれたの古靴のように、何でもない来事が、ずっとになって自分の歩いてきたの始まりだったと気づくこともある。
健は、自分のを持ってからそのことを何度も考えた。
もしあの、あの男が自分のをそのまま通り過ぎていたら。
もし革靴を置いていかなかったら。
もし自分が数かに諦め、靴を売っていたら。
今と同じになっていただろうか。
答えは分からなかった。
ただつ確かなのは、あのを「いつか返す物」とい続けたから、健は物を切に扱うことを覚えたということだった。
客から預かった靴を粗末にしない。
広告
傷んでいるからと簡単に捨てない。
持ち主がもう度履きたいと言うなら、できるところまでを尽くす。
その考え方の根っこには、ずっとあのの革靴があった。
には、修理代がしい靴を買う額にくなることもあった。
「しいのを買った方がいですよ」
健が正直にそう伝えると、それでも直してほしいと頼む客がいた。
そんな、健は余計なことを聞かなかった。
理由があるのだろうとった。
自分にも、18誰にも理解されないまま磨き続けた靴があったからだ。
周囲から見れば、古いだけの革靴だった。
履きもしない。
売りもしない。
持ち主が本当に戻ってくる保証もない。
それでも健にとっては、毎磨く理由があった。
が何かを切にする理由は、から見ただけでは分からない。
そのことも、健が靴から教わったことのつだった。
の仕事が終わり、若い職たちが帰った。
健が1で作業台の周りを片づけるがあった。
そんな、々棚から革靴をろした。
のひらに乗せると、っていたより軽い。
9歳の頃には、の靴はずいぶんきく見えた。
自分の両では到底履きこなせないものにえた。
しかし今、35歳を過ぎた自分が持つと、普通の古い紳士靴にしか見えない。
変わったのは靴ではない。
自分の方だった。
健はそのことに気づくたび、議な気持ちになった。
あの頃、自分より遥かにきなに見えた復員兵も、今えば30代ほどの若い男だった。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
名札を戻せなかった夏
昭和19年、学童疎開の列車に乗った二人の少女は、ほんのいたずらのつもりで胸の名札を取り替えた。 「明日になったら戻そうね」 そう笑って交わした小さな約束。けれど、戦争はその約束を簡単には戻せないものにしてしまう。 東京大空襲、家族の消息不明、終戦直後の混乱。迎えのない子どもたちが不安の中で待つ寺に、ある日、一人の伯母が現れる。 「桐生美津子を引き取りに来ました」 その時、立ち上がったのは、本当の美津子ではなかった。 たった一枚の名札が、二人の人生を入れ替えてしまう。 そして21年後、古い疎開写真に残された違和感が、封じられていた真実を静かに呼び覚ます――。昭和1.6萬字5 58 -
完結第12話
家族写真の左端
明治42年、信州の城下町で生糸問屋を営む高瀬家は、初めて一家そろって写真館を訪れた。 紋付き袴の父、着物姿の母と子どもたち、そして椅子に座る祖母。出来上がった写真には、たしかに家族全員が写っていた。 しかし、背景の柱のそばに、誰も知らない若い男が一人だけ立っていた。 撮影の日、その場にいたのは高瀬家の者だけだったはず。しかも男の姿は、まるで古い記憶が重なったように薄く写っていた。 写真を見た祖母は、震える声で一つの名前を呟く。 「宗吉……」 家族の誰も聞いたことのないその名前は、高瀬家が長い間封じてきた過去へとつながっていた。 なぜ、その男の存在は家族から消されていたのか。 一枚の失敗写真が、明治の商家に隠された“もう一人の家族”の真実を静かに浮かび上がらせていく。昭和|兄弟姉妹1.8萬字5 28 -
完結第10話
質屋に出された夫の時計
大正12年9月1日、関東大震災の混乱の中で、千代の夫・信介は日本橋近くの建築会社へ出勤したまま消息を絶った。 会社の建物は崩れ、火災も広がり、周囲は「もう助からないだろう」と口にした。けれど千代だけは、夫の死を受け入れられずにいた。 そんな中、近所の質屋から信介の懐中時計が見つかる。結婚の時、千代が贈った大切な時計。それを持ち込んだのは、信介とは別の見知らぬ男だった。 なぜ、夫の時計が質屋にあったのか。 さらに信介の机からは、千代の知らない鍵と、本郷の下宿の住所が書かれた紙片が見つかる。まとまった金の引き出し、汽車の切符、秘密の部屋――。 夫は震災を利用して、家族を捨てようとしていたのか。 疑いと悲しみに揺れる千代がたどり着いた先には、信介が最後まで隠し続けた、もう一つの真実が待っていた。昭和1.5萬字5 27 -
完結第11話
映画の夜に消える少女
昭和32年、長野の山あいの小さな村では、月に一度だけ巡回映画がやって来た。 村中が講堂に集まり、映写機の音に胸を躍らせる夜。17歳の美代も誰より映画を楽しみにしていた。ところが彼女は、上映が始まる直前になると、必ず村から姿を消してしまう。 男と会っているのではないか。何か隠し事をしているのではないか。 噂が広がる中、兄の正夫はある夜、美代の後を追う。彼女が向かった先にいたのは、目の見えない一人の老人だった。 なぜ美代は映画を見ずに、毎月その老人のもとへ通っていたのか。 そしてある夜、戦前に撮られた古いフィルムが、彼女自身も知らなかった母の記憶を映し出す――。昭和1.6萬字5 97 -
完結第11話
三度目の金色の玉
昭和53年、東京郊外の古い商店街で、歳末福引が始まった。 一等は自転車。誰もが楽しみにする年末の小さな行事だったが、そこで一人の女性が3年続けて一等を引き当てる。 夫を亡くし、息子と二人で暮らす小林千代。 あまりの偶然に、商店街では「福引は最初から決まっていたのではないか」という噂が広がり始める。 そして翌年、八百屋の若主人が福引の準備中に見てしまったのは、会長がこっそり隠していた金色の玉だった。 本当に不正だったのか。 なぜ千代だけが、毎年一等を引いていたのか。 その裏には、商店街の人々が長年黙って守り続けた、ある亡き男への恩と、一人の女性の静かな選択が隠されていた――。昭和1.7萬字5 183 -
完結第10話
届かなかった母の手紙
昭和36年、15歳の芳子は秋田の小さな村を離れ、集団就職列車で東京へ向かった。 別れ際、母のハルは「困ったら手紙を書くんだよ」と何度も言い、芳子も「母ちゃんも書いてね」と約束した。けれど、東京の女子寮に届く郵便の中に、母からの手紙は一度もなかった。 誕生日にも、正月にも、病気で寝込んだ時でさえ、母からの返事はない。芳子の寂しさは、やがて怒りへと変わっていく。 そんなある日、村の郵便局員が芳子のもとを訪れ、古い木箱を差し出した。 中に入っていたのは、切手の貼られていない何十枚もの葉書。 母は本当に、一度も手紙を書かなかったのか。 届かなかった葉書に残されていたのは、芳子が4年間知らなかった、母の深い想いだった――。昭和1.5萬字5 107 -
完結第11話
最後の迷子放送
昭和49年、地方都市の駅前にある丸光百貨店では、毎月第1日曜日の午後3時になると、決まって同じ迷子放送が流れていた。 「京ちゃん。京ちゃん。お母さまが1階案内所でお待ちです」 しかし、その名前を呼ばれても、子どもが現れることは一度もなかった。案内所で働き始めたばかりの中村恵子は、不思議に思いながらも、毎月やって来る小柄な婦人の頼みを見つめ続ける。 なぜ彼女は、何年も同じ名前を呼び続けるのか。 そして、放送が最後になると告げられた日、ずっと現れなかった「京ちゃん」が、ついに百貨店へ戻ってくる――。昭和1.6萬字5 203 -
完結第10話
五輪を見なかったテレビ屋
昭和39年10月10日、東京オリンピックの開会式の日。 商店街のテレビ店「藤田電器」には、テレビを持たない町の人々が集まり、店先の白黒画面に映る国立競技場を見つめていた。日本中が復興の喜びに沸くその日、店主の藤田信夫だけは、なぜか開会式を見ようとしなかった。 息子の浩一が店の奥を探すと、父は倉庫で古い木箱の前に一人座っていた。 「父ちゃん、始まったよ」 そう声をかけても、信夫はただ「お前は見てこい」と言うだけだった。 それから長い年月が過ぎ、父の死後、浩一は倉庫の奥から一冊の手帳と、昭和21年の上野で撮られた古い写真を見つける。そこには、戦後の焼け跡を生きた父と、4人の少年たちの姿が残されていた。 なぜ父は、日本中が歓声を上げた東京五輪の開会式を見なかったのか。 古い手帳に残された約束が、浩一の知らなかった父の戦後を静かに明かしていく――。昭和1.6萬字5 145 -
完結第14話
帰れなかった15歳
昭和35年、15歳の佐和子は、弟たちを助けるために集団就職列車へ乗り込んだ。 向かう先は東京。母が持たせてくれた竹皮の握り飯を抱え、佐和子は故郷を後にする。だが上野駅に到着した時、点呼に彼女の姿はなかった。 座席に残されていたのは、食べかけの握り飯だけ。 「怖くなって逃げた」「男と消えた」――小さな町では、心ない噂だけが広がっていく。それでも母だけは、娘が理由もなく姿を消すはずがないと信じ続けた。 それから23年後。 同じ列車に乗っていた同級生のもとへ、一通の封書が届く。 「佐和子は、東京まで来ています」 あの日、少女は本当にどこへ消えたのか。 母が知らなかった23年の真実が、ようやく動き出す。昭和2.1萬字5 1178 -
完結第10話
ラジオの涙
昭和26年、東京郊外の小さな家で、父は毎晩8時になると必ず古いラジオの前に座っていた。 家族が眠る時間になっても動かず、静かに放送へ耳を傾ける父の目には、いつも涙が浮かんでいた。 息子は、戦争で失った誰かを思い出しているのだと思っていた。 しかし、父が亡くなった後、押し入れの奥から見つかった一枚の古い紙が、家族の知らなかった過去を明らかにする。 終戦の日、小さなラジオを囲んだ兵士たち。 そこで父が感じた、決して忘れることのできない「ある瞬間」とは――。 一人の父が何十年も胸にしまい続けた、涙の本当の理由が今明かされる。昭和1.4萬字5 341