"米はあるのに、田を売った" 第3話
それは18歳の庄吉にとって、まるで計算の途で答えがひっくり返るような話だった。
「おかしいじゃないか」
源蔵は歩きながら「何がだ」と聞いた。
「米はあるんだぞ。蔵にいっぱいある。今はみんな働いたし、田もちゃんと実った。それなのに、どうしてより苦しくなるんだよ」
源蔵は答えなかった。
「米があるのに、なんで税が払えないんだ」
その問いに、源蔵はようやくを止めた。
の向こうには、刈り取りを終えた田が夕に照らされていた。昔ならあれだけ実った田を見れば、を越せるというしかなかった。ところが今の源蔵のに浮かぶのは、米俵の数ではなく、町でいくらになるかという数字だった。
「米を作るだけじゃ、駄目な世のになったんだ」
源蔵はそれだけ言い、再び歩きした。
庄吉はその言葉のを、まだ完全には理解できなかった。
だが忘れることもなかった。
翌になると、源蔵の計はさらに苦しくなった。の豊作とは違い、からがなく、には用の流れが細くなったうえ、稲には虫までついた。収穫は例より減ったが、そのものが消えたわけではない以、用しなければならない税まで都よく減ってくれるわけではなかった。
そこへ太が病気になった。最初は軽い咳だったものが数でに変わり、の医者に診てもらってもなかなかがらなかった。
広告
トヨは夜通し額に濡れ布を置き、源蔵は町まで薬を買いにったが、そのたびにわずかな現がからていった。
農具も古くなっていた。鍬の柄が折れ、鎌を何本か研ぎ直し、には牛の飼料代も必になった。以なら米をし余分に売れば済んだことだが、米価がいままでは何かつ現が必になるたび、蔵から放す量が増えていった。
ある晩、庄吉が茶のへ入ると、源蔵がで帳面を広げていた。横には券が並べられ、灯ので何度も数字をしたり引いたりしている。庄吉が何をしているのか尋ねても、父はすぐには答えなかった。
やがて源蔵は、川向こうの田を指で叩いた。
「ここを売る」
庄吉は最初、冗談だとった。
「何を言ってるんだ」
「川向こうの枚だ。松井さんに買ってもらう」
その名を聞いた途端、庄吉の顔がこわばった。町で毎自分たちの米を買う、あの米商だった。米価がいにはく買い、今度はに困った農民からまで買うのかとうと、若い庄吉にはとても受け入れられなかった。
「じいちゃんの田だぞ」
「分かってる」
「ひいじいちゃんのから耕してきたんだろ」
「分かってる」
「だったら売るなよ」
庄吉の声がきくなった。
源蔵もそれまで抑えていたものが切れたように顔をげた。
「売らなかったら税が払えないんだ!」
広告
その言で、隣の部にいたトヨもお糸もきを止めた。太まで布団から顔をし、のは突然静まり返った。
庄吉はそれでも引かなかった。
「米があるだろ」
「その米を全部売ったら、今度は俺たちがう物がなくなる!」
源蔵は券を掴み、畳のへ置いた。
「川向こうの田を売れば、今は越せる。残った田は守れるし、太の薬代も払える。来の種籾までをつけなくて済む」
庄吉は拳を握った。
「でも田を売ったら、来取れる米が減るだろ」
源蔵は何も言わなかった。
「来またがりなくなったらどうするんだよ。また田を売るのか」
答えはなかった。
庄吉が番怖かったのは、父がその先を考えていないことではなかった。考えたで、それでもにがないと分かっている顔をしていたことである。
その、部の隅で話を聞いていたお糸がをいた。
「私が町へ働きにる」
全員がお糸を見た。
源蔵はすぐに「何を言ってるんだ」とい調で遮ったが、お糸は目をそらさなかった。ごろには、町の製糸で働く娘を募集しているという話が回っており、所のからも何か若い娘がる予定だった。
「働けば、おでもらえるんでしょう」
お糸は父へ言った。
「今いるのは、お米じゃなくておなんでしょう。だったら私がおを稼ぐ」
源蔵は首を横に振った。
「駄目だ。おを働きにしてまで田を守るつもりはない」
広告
おすすめ作品
-
完結第22話
大正十四年、卒業式で制服を脱いだ三十七人――母の署名に隠された秘密
大正十四年、信州の私立女学校。卒業を控えた小林操は、式服の代金を払えない七人の同級生が、記念写真から外されると知る。卒業式当日、三十七人の少女たちは一斉に紺色の上衣を脱ぎ、学校の決定に抗議した。しかし校長は卒業証書の交付を拒否。さらに、式服を仕立てた十二人の女性たちにも賃金が支払われていないことが明らかになる。しかも、学校の注文が取り消された場合の弁償書には、操の母の署名があった。友人を守るための行動が、なぜ母たちの暮らしを脅かすことになったのか。時代|歴史|昭和3.0万字5 83 -
完結第22話
消えた十一丁の鍬
昭和十七年、山形県の小さな山村。金属回収が進むなか、老鍛冶屋の徳兵衛は、村人から預かった二十七丁の鍬を納屋に隠し、「一丁も渡さん」と言い張った。父の頑固さに反発する息子・信一は、持ち主へ農具を返すため、一丁ずつ修理の予定を立て始める。ところが翌朝、十一丁の鍬から鉄の刃だけが消えていた。父が密かに作っていたのは、村の水門を守るための金具だった。しかし、その水門には誰も知らない危険が隠されていた。時代|歴史|昭和2.8万字5 101 -
完結第23話
昭和53年、満員の始発を止めた運転手――その後、坂道で起きた悲劇
昭和53年7月30日。沖縄の交通が右側通行から左側通行へ切り替わった朝、55歳のバス運転手・新垣清徳は、32人の乗客を前に始発の発車を拒んだ。用意された旧型バスは、乗降口が車道側に開く危険な車両だったのだ。しかし欠便を恐れる主任は、若い運転手にその車を出すよう命じてしまう。やがて坂下から届いたのは、一人の少年が負傷したという知らせ。なぜ危険だと分かっていたバスが走ったのか。清徳は息子や同僚たちとともに、事故の責任と、誰も気づかなかった道路の危険に向き合っていく。職場逆転|時代|歴史|昭和|裡の顔3.0万字5 175 -
完結第20話
昭和19年、三十二人が夕飯を拒んだ理由
昭和十九年、信州の寺に集団疎開した子どもたちが、ある晩、いっせいに箸を置いた。「一人だけ、まだ食べていません」。病に伏せる少女・妙子の食事を案じた十二歳の正雄は、食卓に並ぶ膳の数に奇妙な違和感を覚える。やがて納屋の柱に刻まれた米俵の数、届かない食糧、教師の印が押された受領書が浮かび上がる。さらに役場の名簿には、寺で暮らす八人の子どもが翌月から消されることになっていた。誰が、何のために食糧と子どもたちの名前を動かしているのか。時代|歴史|昭和|真実|真相2.8万字5 160 -
完結第22話
空の米びつと一合の嘘
昭和二十三年、大阪の小さな米屋で、女将のフミが配給米を一合ずつ少なく渡しているという噂が広まった。怒った住民たちが店へ押しかけ、米を隠しているはずの台所を調べると、そこにあったのは空っぽの米びつと薄い麦粥だけだった。なぜ客の米を減らしながら、自分の子どもにさえ白いご飯を食べさせられないのか。母の沈黙を不審に思った長男・勇一は、配給帳と運送記録を調べ始める。やがて浮かび上がったのは、途中で姿を消す米袋、受け取っていないのに押された印、そして二年前に亡くなった父の署名だった。時代|歴史|昭和|兄弟姉妹2.8万字5 170