"日本人に戻れた父、戻れなかった娘" 第9話
それを見ながら修が言った。
「いつか子どもができたら、見せればいい」
美津子は驚いて修を見た。
「これを?」
「うん」
「何て言うの?」
修は簡単そうに答えた。
「お母さんが子どもの頃の写真だって」
美津子はしばらく何も言わなかった。
それだけでいいのかもしれないとった。
満州。
引き揚げ。
戦争。
国。
そういうきな言葉から説しなくてもいい。
まずは、
「お母さんが子どもの頃にんでいた町」
それで分だった。
数、美津子には娘がまれた。
さなで指を握られた、美津子は議な気持ちになった。
この子は岡でまれた。
おそらく、自分が奉で育ったことをらなければ像もできないだろう。
けれど、それでいい。
いつか話せばいい。
美津子はそうった。
娘が幼稚園へ通う齢になった頃、から持ってきた荷物を理していた美津子は、古い箱をけた。
には、あの写真が入っていた。
父から渡された奉の写真だった。
美津子が用事で部をれているに、娘がその枚を見つけた。
「お母ちゃん」
呼ばれて戻ると、娘が写真を両で持っていた。
「ここどこ?」
美津子は写真を受け取った。
そこには、奉ののにつ10歳頃の自分が写っていた。
背景には見慣れたはずのがあり、今では記憶のでしか見ることのできないがある。
広告
美津子は瞬、何と答えればいいのか考えた。
以なら迷っただろう。
「昔んでいたところ」
とだけ言ったかもしれない。
あるいは奉という名をにすることさえためらったかもしれない。
だが今は違った。
「お母ちゃんが子どもの頃にんでた町」
娘は写真を覗き込んだ。
「いの?」
「いよ」
「ったことある?」
美津子は笑った。
「お母ちゃんは、そこでまれたんだよ」
娘は驚いた顔をした。
「ここじゃないの?」
「うん」
「おじいちゃんも?」
「おじいちゃんは岡でまれた」
娘はしばらく考えた。
子どもにとっては議な話だったのだろう。
やがて写真を指差して聞いた。
「じゃあ、ここ、故郷?」
美津子はすぐには答えなかった。
あのの父との会話が蘇った。
昭27428。
ラジオので父が言った。
「これで俺たちも、ようやく本に戻れたようなもんだ」
美津子は答えた。
「私は、本に帰ってきたんじゃない。初めて来たの」
その、父に問いかけた。
「私の故郷は、誰が決めるの?」
あのの自分なら、故郷は奉だけだと言ったかもしれない。
なくとも岡を故郷だとはっていなかった。
だが今、美津子には岡にも切なものがあった。
母と暮らした借。
郵便局。
修と宿りした軒。
結婚した料理。
娘がまれた。
最初はらないだった。
友達もいなかった。
何も持っていなかった。
広告
それでも、そこで暮らしたが積みなった。
らない町だった所が、いつのにか帰る所になっていた。
美津子は娘へ笑った。
「そうだね」
娘が首を傾げた。
美津子は続けた。
「お母ちゃんの故郷のつ」
「つ?」
「故郷って、つじゃなくてもいいんだよ」
娘はそれ以く考えず、
「ふうん」
と言って写真を返した。
その無邪気な反応に、美津子はし笑った。
たちは、国やへつの名をつけたがる。
どこでまれた。
どこへ帰った。
どこのなのか。
けれど子どもにとっては、もっと単純なのかもしれない。
お母ちゃんがんでいた所。
それだけで分だった。
その、美津子は娘へしずつ昔の話をした。
の寒さ。
炭の匂い。
。
学。
父の雑貨。
友達。
戦争が終わったにをれたこと。
ただ、幼い娘にい話を全て伝える必はないとった。
だから最初は、楽しかった記憶から話した。
娘は々、
「そのお菓子べたい」
「そのお友達、今どこ?」
と聞いた。
美津子には答えられないこともかった。
けれど、昔の自分ならにすることさえできなかった記憶を、今は子どもへ話している。
そのことが嬉しかった。
宗郎もを取った。
孫が遊びに来ると、以の厳しさが嘘のように表を緩めた。
ある、孫が奉の写真を持って宗郎へ聞いた。
「おじいちゃん、ここんでたの?」
宗郎は写真を見た。
「ああ」
「ここもおじいちゃんの故郷?」
宗郎はし驚き、美津子を見た。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
この家は俺のものだ
昭和23年、信州の小さな温泉町で、古い旅館「松乃屋」の主人が亡くなった。 葬儀の後、長男の正一は当然のように言い放つ。 「この家は全部、俺が継ぐ」 長男が家を守り、嫁いだ娘は実家の財産に口を出さない。それが、この町では長い間“当たり前”だった。 しかし翌朝、妹の文江が町役場から一枚の紙を持ち帰る。そこに書かれていたのは、新しい民法によって家制度も家督相続も廃止されたという事実だった。 父が守れと言い残した旅館。長男として人生を縛られてきた兄。嫁ぎ先から戻る場所を失った妹。 「家」とは、誰のものなのか。 戦後の価値観が大きく揺れ始めた時代に、三人兄妹は父の残した松乃屋と向き合うことになる――。時代|昭和1.7万字5 66 -
完結第11話
帰ってきた長男に家はなかった
昭和21年の春、10歳の正一は母に手を引かれ、復員列車から降りてくる父を待っていた。 3年前に出征した父・慎太郎は、痩せ細った姿でようやく故郷へ戻ってきた。母は泣き崩れ、正一は家族が元に戻ると信じた。 しかし、呉服店の前に立った祖父は、帰ってきた父に向かって言った。 「お前は、この家には入れん」 父がいない間、店を守っていたのは弟の隆次だった。さらに父の後ろには、引き揚げの途中で出会った若い女性の姿があった。 待ち続けた妻、店を守った弟、帰る場所を失った女性、そして戻ったはずの家に居場所をなくした父。 戦争が終わっても、家族の時間は元には戻らない。 復員列車が運んできたのは、再会の喜びだけではなかった――。時代|歴史|昭和1.6万字5 1907 -
完結第11話
新幹線の日、父は駅弁を売らなかった
昭和39年10月1日。東海道新幹線が開業し、日本中が「夢の超特急」に沸いていた朝。 静岡の小さな駅で30年駅弁を売ってきた石田栄吉は、その日だけ木箱に弁当を詰めようとしなかった。 炊き上がったご飯も、煮物も、玉子焼きもある。駅前には祝賀の小旗が並び、息子の明夫は「今日こそ一番大事な日だ」と父を責める。 しかし栄吉は、古い腕時計を見つめたまま静かに言った。 「今日は売らない」 新幹線の時代を嫌ったのか。それとも、変わっていく世の中についていけなくなったのか。 だが昼前、明夫は家に残された古い時刻表を見つける。赤鉛筆で丸をつけられていたのは、もう二度と同じ形では来ない一本の普通列車だった。 父が本当に見送りたかったものは、列車だけではなかった――。時代|歴史|昭和1.6万字5 18 -
完結第10話
出征前、父が婚姻届を出した
昭和18年、戦局が悪化する中、法律を学んでいた大学生・藤原正一にも出征の知らせが届く。 長男として家を継ぐはずだった息子が、いつ戻るかも分からない戦地へ向かう。その現実を前に、父・宗吉は正一の婚約者・志津子を呼び、突然こう告げた。 「今すぐ、藤原家の嫁になれ」 息子に何かあった時、婚約者のままでは守れない。そう考えた父の決断だった。だが志津子は、家族全員の前で静かに首を振る。 「私は正一さんと結婚したいんです。藤原家を守るために嫁になるんじゃありません」 出征を前にした息子、家を守ろうとする父、そして自分の人生を他人に決められまいとする婚約者。 別れの日、駅のホームで父が取り出した一枚の婚姻届が、三人の運命を大きく変えていく――。時代|昭和1.5万字5 194 -
完結第11話
毎週木曜、つながらない番号へ
昭和34年の秋、山あいの小さな町で交換手として働く19歳の美代子は、毎週木曜の夜8時40分にかかってくる奇妙な電話に気づく。 駅前の赤電話から、決まって同じ女が頼む番号。 「三七二番をお願いします」 しかしその番号は、半年前に閉鎖された繊維工場の女子寄宿舎のものだった。もう誰もいないはずの場所へ、女は雨の日も風の日も、同じ時刻に電話をかけ続けていた。 やがて美代子は、古い接続記録の中に不自然な最後の通話を見つける。 昭和34年3月12日。 その夜を境に、寄宿舎からの電話は途絶えた。 そして11月最初の木曜日、今度は若い男の声が交換台に届く。 「妹を探しています」 半年間つながらなかった番号と、夜勤者名簿から赤い鉛筆で消された一人の少女。 閉ざされた寄宿舎で、あの夜いったい何が起きたのか――。歴史|昭和1.6万字5 137 -
完結第10話
銀行員の妻も列に並んだ日
昭和2年、大阪。 銀行の前には、通帳と印鑑を握りしめた人々の長い列ができていた。怒号が飛び交う中、銀行員の藤田清吉は何度も声を張り上げる。 「預金は安全です!」 しかし清吉自身、その言葉を心から信じてはいなかった。前夜、支店長室で告げられたのは、銀行がすでに危うい状態にあるという現実だった。 それでも行員として、人々を落ち着かせなければならない。 そう思って列の前に立った清吉の目に、ある人物の姿が飛び込んでくる。 通帳を握りしめ、預金を下ろす列に並んでいたのは、ほかでもない清吉の妻・春江だった。 銀行を守るのか、預金者を守るのか、それとも家族を守るのか。 昭和金融恐慌の混乱の中で、一人の銀行員が向き合ったのは、お金よりも重い「信用」の崩壊だった。時代|歴史|昭和1.5万字5 85 -
完結第10話
米蔵を開けた娘
大正7年、米の値段が日に日に上がり、人々の暮らしが追い詰められていた大阪の町。 長屋街で米屋「山城屋」を営む徳蔵の娘・千代は、店先で米を買えずに帰っていく母親たちの姿を見て、胸を痛めていた。けれど店の裏の蔵には、まだ何十俵もの米が積まれている。 なぜ父は、困っている人たちに米を売らないのか。 商売を守ろうとする父と、目の前の空腹を見過ごせない娘。ある日、父が店を離れた隙に、千代はついに蔵の鍵を手に取る。 しかし、善意で開けたはずの蔵の扉は、町の怒りを一気に呼び込んでしまう。 米を求める人々が押し寄せる中、父・徳蔵が向かった先は警察だった。 あの日、蔵の前で父と娘が見たものは、ただの米騒動ではなかった。 一杯の飯をめぐって、商売の責任と人の暮らしが激しくぶつかった夏の物語。時代|歴史1.4万字5 1924