"この家は俺のものだ" 第4話
ここは、自分のではない。
その言葉だけが、ので何度も繰り返された。
清子はこのでまれた。
幼い頃、2階の廊をって父に鳴られた。
厨では母に包丁の持ち方を教わった。
になると文と同じ布団へ入り、寒いと言ってをくっつけて眠った。
玄関の柱には、子どもの頃につけたさな傷が今も残っている。
母が病気になった、枕元でを握ったのもこのだった。
母がくなった、父が誰もいない厨で1座っているのを見つけたのもこのだった。
それなのに、結婚したを境に、ここは自分のではなくなったのだろうか。
「じゃあ、私はどこののなの?」
清子が尋ねた。
正は答えなかった。
「向こうからは帰れって言われた」
清子は続けた。
「兄さんは、ここは私のじゃないって言う」
声はきくなかった。
むしろ静かだった。
その静かさの方が、文には痛く聞こえた。
「私は財産が欲しいんじゃないよ」
清子は兄を見た。
「このの3分の1を売って、おにしてくれなんて言わない」
正は黙っていた。
「ただ……」
清子は度言葉を止めた。
目に涙がたまり始めていた。
「帰る所がなくなるのが怖いの」
文がそっと妹の背にを置いた。
正は顔を背けた。
そのの夕は、誰もほとんど喋らなかった。
客にした残りの煮物と噌汁が卓に並んでいた。
広告
囲炉裏のそばには、くなった松吉がいつも使っていた座布団がそのまま残されていた。
正は酒をみながら、父の言葉をいしていた。
「おは男だから」
それは命令だった。
には荷だった。
それでも正は、その言葉を支えにもしてきた。
自分はを継ぐだから、この苦労にはがある。
自分だけが残ったのも、そのためなのだ。
そう考えてきた。
妹たちは結婚してへた。
好きな相と庭を持った。
なくとも正には、そう見えていた。
だが今、目のにいる清子は、夫のから追いされている。
そして自分は、妹へ「ここもおのではない」と言った。
正は杯をへ運んだ。
酒のが、いつもより苦くじられた。
翌朝、文が厨へ入ると、すでに包丁の音がしていた。
見ると清子が根を刻んでいた。
髪をろでまとめ、古い掛けをつけている。
「何してるの」
文が聞くと、清子は振り返った。
「朝ご飯の伝い」
「休んでればいいのに」
「何もしないでいる方がつらいから」
清子は再び根へ目を落とした。
つきは速かった。
千代が鍋をかき混ぜながら笑った。
「清ちゃん、昔からがいから助かるわ」
「お義姉さんの真似してただけだよ」
「私よりいくらいよ」
2はさく笑った。
帳からその声を聞いていた正は、何も言わなかった。
広告
朝が終わると、清子は客へ向かった。
布団をげ、窓をけ、畳を掃く。
古い旅館では、部ごとにのかかることが違った。
襖が閉まりにくい部。
鉢のが散りやすい部。
のになると窓際が湿る部。
清子は昔から見てきたため、説されなくてもっていた。
「この部の障子、が破れてるね」
「で張り替えるつもりだったの」
千代が答えると、清子はすぐに古い障子を探しにった。
昼には廊を雑巾がけした。
午になると厨で芋の皮を剥いた。
客が到着すれば玄関へて荷物を受け取り、千代が別の客に呼ばれているには、お茶を運んだ。
「まあ、娘さん?」
常連客の老女に聞かれ、千代は瞬返事に迷った。
「主の妹です」
「ああ、そう。よく働くねえ」
清子は笑ってをげた。
そんなが数続いた。
松乃は戦争から性なだった。
以はみ込みの使用もいたが、戦争を境に数が減り、今では正と千代がになってほとんど全てを回していた。
松吉が病気になってからはさらに変だった。
清子が1加わっただけで、千代の負担は目に見えて減った。
夕方、千代は珍しく腰をろして茶をむができた。
「こんなに座るの、久しぶり」
千代が言うと、清子が笑った。
「じゃあ私、役にってる?」
「役につどころじゃないわよ」
その会話を正も聞いていた。
だが「ここにいろ」とは言わなかった。
清子も兄に聞かなかった。
いつまでいていいのか。
広告
おすすめ作品
-
完結第13話
疎開から戻った娘が、再び村へ帰りたがった理由
昭和二十年の秋。戦争で夫と家を失った文江は、集団疎開から戻った十二歳の娘・幸子と、焼け跡の東京でようやく再会した。 ところが三日後、娘は突然「あの村へ帰りたい」と言い出す。母との暮らしを喜んでくれると思っていた文江は、深く傷ついた。 やがて娘の行李から見つかった一通の手紙。そこには、長野の農家で暮らす九歳の少女・千代との、切実な約束が隠されていた。 自分たちの生活さえ苦しい母娘は、その約束にどう向き合うのか。戦後の厳しい暮らしの中で、家族の絆と本当の居場所を見つめ直す、心温まる物語。時代|歴史|昭和|ミステリー|親子関係2.8万字5 8 -
完結第13話
杉原千畝の査証を得た一家、母だけが出国できない
一九四〇年、リトアニア。故郷ポーランドを追われた十六歳のミラは、両親と弟とともに、杉原千畝が発給した日本の通過査証を手にする。しかし、それは長い逃避行の始まりにすぎなかった。 足りない旅費、次々と求められる書類、そして母の名前に生じた一文字の食い違い。ようやく出国の道が見えた時、許可されたのは家族四人のうち三人だけだった。 母を残して出発するのか、それとも全員で待つのか。見知らぬ人々の小さな善意に支えられながら、一家は生き延びるための道を探していく。 杉原千畝の「命のビザ」の史実を背景に描く、家族と希望の物語。時代|歴史|昭和2.7万字5 11 -
完結第20話
磨かなかった靴
昭和23年、上野駅前。靴磨きで生計を立てる十三歳の健太は、町の有力者・篠田が差し出した革靴を見た瞬間、磨くことを拒んだ。その踵には、三年前に生き別れた兄と一緒に縫った、忘れられない傷跡があった。 篠田の怒りを買い、仕事場を失った健太は、仲間たちと暮らしを立て直しながら兄の行方を追い始める。ところが調べるうちに、少年たちの年齢を偽った労働書類と、行方不明の兄の不可解な署名が浮かび上がる。 焼け跡の町で、一足の靴を手掛かりに隠された真実へ近づく少年の、勇気と再生の物語。時代|歴史|昭和|兄弟姉妹2.8万字5 184 -
完結第13話
昭和21年、米を没収された母が引き返した理由
昭和21年秋、食糧難の大阪。三人の子どもを育てる森川澄子は、大切な着物と引き換えに手に入れた二升の米を、買い出し列車で警察に取り上げられてしまう。途方に暮れる母へ、十歳の息子が告げたのは、米袋の中に隠された小さな鉄の箱の存在だった。次の駅で引き返し、警察に事情を話した澄子。しかし、その箱に刻まれた三本の稲穂の印は、母子寮から消えた救援物資と、夫が隠していた仕事の秘密へとつながっていく。家族の生活さえ脅かされる中、一人の母親がたどり着く真実とは――。時代|歴史|昭和|真相2.7万字5 114 -
完結第20話
昭和46年、優勝した妻に夫が告げた「帰るな」
昭和46年、大阪。48歳の主婦・榎本春子は、町内のボウリング大会で男性たちを抑え、見事優勝を果たした。しかし夫・信夫から返ってきたのは祝福ではなく、「そんなに好きなら、もう家には帰るな」という冷たい言葉だった。 小さな鞄を手に家を出た春子は、同じように自分の時間を持てなかった女性たちのため、ボウリング教室を始めようとする。 ところが、会場の予約に夫の会社が割り込み、申込書には身に覚えのない「本人了承済み」の文字が。 妻として、母として生きてきた春子が、初めて自分の人生を選び直す。昭和のボウリングブームを背景に描く、再出発の物語。時代|歴史|昭和2.8万字5 171