"昭和21年、港で「娘ではない」と言った母" 第2話
妙子は恵のを握り、そのまま釜へ向かった。
へ乗ったも文子を探した。
子どもの寝をつずつ覗き、名簿に名がないか頼み込み、泣き声がすれば振り返った。
それでも見つからなかった。
「その、恵ちゃんは?」
静が聞いた。
妙子は目を伏せた。
「私の着物の裾を、ずっと握っていました」
最初は、
「おばちゃん」
と呼んでいた。
へ乗る頃には、
「お母さん」
と呼ぶようになった。
妙子が訂正すると、恵は激しく泣いた。
だから途から、何も言えなくなった。
「きっと」
妙子は声を震わせた。
「そう呼んでおけば、置いていかれないとったんです」
はく息を吐いた。
「それなら、どうして港でいきなり本当のことを言った」
妙子は兄を見た。
「言わなければ、この子が文子として扱われるかもしれないから」
「それでも」
「もし本当の文子が見つかったら?」
部が静まり返った。
「恵ちゃんまで、自分が誰なのか分からなくなる」
妙子は膝のでを握った。
「私はもう、子どもの名を奪うようなことはしたくありません」
障子の向こうでさな音がした。
妙子が振り返る。
襖の隙に、恵がっていた。
全部聞いていた。
「恵……」
女は泣いていなかった。
ただ妙子を見て聞いた。
「じゃあ私、本当にここにいていいの?」
妙子は答えようとした。
しかし恵が続けた。
広告
「文子ちゃんが見つかるまでだけ?」
その問いに、妙子は何も言えなかった。
翌朝、恵は妙子よりく起きていた。
静が台所へくと、女は縁側に正座していた。借りた寝巻きも毛布も丁寧に畳み、自分のさな呂敷包みまで膝の横へ置いている。
「どうしたの、こんな朝く」
「片づけました」
「偉いわね」
「いつでもられるように」
静のが止まった。
「誰がろって言ったの」
「誰も言ってない」
恵は庭を見たまま答えた。
「でも、言われてから準備するよりいいから」
歳の子どもが言うには、あまりに落ち着いた言葉だった。
妙子は廊でその会話を聞いていた。
胸が痛んだ。
それでも、
「ずっとここにいていい」
とは言えなかった。
数、に連れられ、妙子は役へ向かった。
引揚者としての続き。
配。
所の確認。
そして問題になったのが恵だった。
戸籍係の男は類を何度も見返した。
「神文子さんではない」
「違います」
「本名は?」
「恵です」
「姓は?」
妙子は答えられなかった。
恵自も、はっきり覚えていない。
「では何と呼ばれていたの」
職員が女へ聞く。
「はるちゃん」
「お父さんの名は?」
首を振る。
「お母さんは?」
「お母さん」
「名を聞いているんだよ」
恵の顔が固まった。
妙子がすぐに言った。
「もういいでしょう」
「いや、こちらも必なことを確認しているんです」
広告
のには、けない欄がいくつも残った。
氏名。
本籍。
父。
母。
すら、恵は、
「たぶん」
としか言えなかった。
妙子はその空を見ているうちに、女が突然この世からくなっていくような恐怖を覚えた。
のでをした、額へ濡れた布を載せた子。
握り飯を半分に分けた子。
夜、妙子の袖を握りながら眠った子。
それなのにのでは、何つ証できない。
「実子として届けることはできません」
職員は言った。
「分かっています」
「親族が確認できなければ、に保護施設ということも考えなければなりません」
恵が妙子の袖を掴んだ。
指先が震えている。
「施設って何?」
誰もすぐに答えなかった。
役から戻る途、恵は言も話さなかった。
へ着くと、玄関で靴を脱ぎながら聞いた。
「施設って、ここじゃないところ?」
妙子はしゃがんだ。
「まだ決まったわけじゃない」
「子どもだけでむの?」
「恵」
「お母さんは来ない?」
妙子の胸が詰まった。
「私は……」
恵はそれ以聞かなかった。
その晩。
親戚の叔母が訪ねてきた。
引揚者が戻っただけでも、のには負担が増えている。米も類も分ではない。その、元の分からない子をいつまで置くつもりなのか。
「妙子さん」
叔母は悪なく言った。
「たいようだけど、文子ちゃんを探すのが先でしょう」
妙子は黙っていた。
「恵ちゃんには恵ちゃんの親がいるかもしれない。施設に預ければ、そっちでも探してくれる」
理屈としては正しかった。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
昭和51年、帰宅目前で消えた25歳女性社員
「一人で静かに帰りたいので、大丈夫です」 昭和51年、25歳のみち子は飲み会のあと、一人でタクシーへ乗った。 運転手は、彼女を自宅からわずか50メートルの場所で降ろした。 「夜遅くにありがとうございました」 それが、みち子を見た最後の証言だった。 布団は朝まで誰にも使われず、通帳も着替えも部屋に残っていた。 上司と同僚には不自然な空白時間があったが、何も見つからなかった。 そして9年後。 亡くなった上司の娘が、遺品のアルバムを開いた。 失踪当夜の宴会写真の次に、見知らぬ和室を写した一枚が貼られていた。 机の上には、黒い女性用のハンドバッグ。 写真の裏には、みち子が消えた数日後の日付が押されていた。昭和|ミステリー|真相1.7万字5 156 -
完結第10話
昭和63年、消えたいちご農園主――3年後の古い倉庫
「分かった。じゃあ、2時頃に行く」 昭和63年4月5日、いちご農園主の夫は、一本の電話を受けて家を出た。 「夕飯までには戻る」 それが、家族が聞いた最後の言葉になった。 通帳も印鑑も着替えも、すべて家に残されていた。 夫の手帳には、乱れた字で二行だけ書かれていた。 《佐藤さんの件、今日で決める》 《2時 古い倉庫》 しかし名前の挙がった男は、電話も面会も否定した。 倉庫の持ち主も、最初は「会っていない」と証言した。 夫の行方が分からないまま、3年が過ぎた。 そして倉庫の取り壊し当日、周囲と色の違う床へ重機の刃が入った。昭和|ミステリー|真相1.5万字5 17 -
完結第12話
昭和27年、父は町長へ戻らなかった
「父さん、もう一度町長になれるんだよ」 昭和27年、公職追放の制限がなくなる知らせを見て、17歳の私は家へ走った。 かつて町長だった父は、追放後、米俵を運び、工事現場で働いていた。 これで失った名誉を取り戻せる。 そう信じた私に、父は言った。 「もう役場には戻らん」 その後、元町議や商店街の人々が次々と父を訪ねた。 それでも父は、町長選への出馬をすべて断った。 「見返してやればいい」と訴える私へ、父は静かに言った。 「そんな理由で町長になる奴が、一番町長になっちゃいかん」 数日後、町の米屋で、私は父が町長だった頃の“ある決定”について初めて聞かされた。時代|歴史|昭和1.7万字5 16 -
完結第10話
昭和33年、父が隠した高校合格通知
「父ちゃん、今日も合格通知、来てない?」 正吉は新聞から目を上げず、「来てない」と答えた。 修一は、自分は落ちたのだと思った。 ところが翌朝、母が仏壇の引き出しから見慣れない封筒を見つけた。 宛名は修一。 差出人は、受験した県立高校だった。 震える手で封を切ると、そこには《合格》の二文字。 しかも消印は、三日前だった。 その日の夕方、修一は通知を食卓へ置いた。 「父ちゃん、これ知ってた?」 父はしばらく黙ったあと、低い声で答えた。 「ああ。俺が隠した」時代|歴史|昭和1.5万字5 41 -
完結第10話
昭和31年、給料日に消える父の秘密
「お父さん、どうして給料日だけ帰ってこないの?」 昭和31年、父は毎月その日だけ、夜遅くまで姿を消した。 酒も飲まず、賭け事もしない父だった。 それでも理由を聞けば、「男にはいろいろある」と口を閉ざした。 やがて父の腕時計が消えた。 次は冬のコート、その次は革鞄と大工道具だった。 不安になった母は、父が別の女性と会っているのではないかと疑い始めた。 ある給料日、中学1年の私は工場を出た父をこっそり追いかけた。 父が入ったのは酒場でも、女性の家でもなかった。 古い時計や工具が並ぶ、一軒の古物商だった。 15分後、父は持っていた包みを失い、代わりに数枚の紙幣を財布へ入れて出てきた。 その夜、母に問い詰められた父は、いつもと同じ厚さの給料袋を黙ってちゃぶ台へ置いた。時代|歴史|昭和1.5万字5 54