"昭和21年、港で「娘ではない」と言った母" 第3話
「妙子さんが抱えたままじゃ、向こうの親だって見つけられないかもしれないじゃない」
その言葉だけは、妙子にもかった。
自分が恵をさないことで、本当の母親との再会を邪魔することになるかもしれない。
守りたい。
けれど、自分のものにしてはいけない。
その境目が分からなかった。
夜。
布団へ入った、恵がさく呼んだ。
「お母さん」
妙子は目をけた。
「何?」
「私、本当のお母さんが見つかったら、そっちへくの?」
妙子は暗ので答えられなかった。
恵が続けた。
「文子ちゃんが見つかったら、お母さんは嬉しい?」
「もちろん」
「じゃあ」
しばらく沈黙した、恵が聞いた。
「私のお母さんが見つかったら、私も嬉しくならないといけない?」
妙子は息を止めた。
女の声は震えていた。
「顔、よくいせないの」
「……」
「声も」
妙子はを伸ばし、恵の髪に触れた。
すると恵が突然言った。
「でも、つだけ覚えてる」
「何を?」
「赤い糸」
妙子のが止まった。
「お母さんが、私の着物の内側に縫ってくれたの」
翌朝。
妙子は恵の綿入れを調べた。
裏の裾。
縫い目の奥。
そこに、赤い糸で留められたさな布片があった。
と汗で文字はほとんど消えている。
けれど文字だけ読めた。
《森》
妙子は息を呑んだ。
恵には、まだ失われていない名がある。
そのの午。
が引揚援護の世話から枚のを持って帰ってきた。
広告
「妙子」
声がいつもと違った。
「釜から来た子どもの名簿に……森という姓の女の子がいる」
恵が顔をげた。
妙子はを受け取った。
《森 推定歳》
さらに横にさくかれている。
《同母・森千代、別便にて博到着の能性あり》
恵の母親が、本へ着いているかもしれなかった。
その瞬。
恵はばなかった。
ただ妙子の袖を、これまでで番く握った。
名簿にかれた女の名は、
《森》
だった。
妙子たちは「恵」だとっていたが、正しくは「」だったらしい。
それだけでも妙子には衝撃だった。
自分が守ってきた女の名を、完全にはらなかった。
赤い糸。
森という姓。
という字。
母・千代。
つずつ、女の失ったものが戻ってくる。
本来ならばなければならない。
それなのに妙子の胸の奥には、が広がっていた。
「お母さんの名、千代だった?」
妙子が聞く。
は眉を寄せた。
「分からない」
「森って名は?」
「覚えてない」
「赤い糸は覚えているのに?」
「うん」
それ以は聞かなかった。
が世話を通じ、森千代の所確認を頼んだ。
数待てば何か分かるという。
その、の様子が変わった。
妙子のそばへ以ほど寄らない。
夜も袖を握らない。
事が終われば茶碗を洗い、縁側へく。
「どうしたの」
妙子が聞いても、
「何でもない」
としか答えない。
広告
ある午。
が静と洗濯物を干していた。
妙子は台所で米を研ぎながら、の会話を聞いた。
「静おばさん」
「何?」
「本当のお母さんが見つかったら、そののところへかないと駄目?」
静のが止まる。
「それは……」
「きたくないって言ったら、悪い子?」
妙子は米を研ぐを止めた。
静はしばらくして答えた。
「悪い子じゃないわ」
「でも?」
「会ってから考えてもいいんじゃない?」
「決められるの?」
「え?」
「子どもでも?」
静も答えられなかった。
親がいるなら親元へ。
寄りがなければ親族へ。
それも無理なら施設へ。
戦の混乱の、たちは子どもを守ろうとした。
けれど、
「本はどうしたいのか」
まで聞く余裕のないこともかった。
妙子はその夜、へ言った。
「もし森千代さんが本当のお母さんだったとしても、まず会うだけよ」
は布団ので妙子を見た。
「そのが私を連れていくって言ったら?」
「そのに考える」
「誰が?」
妙子は瞬詰まった。
「?」
「ちゃんも緒に考える」
「本当に?」
「本当」
女はしだけしたようだった。
しかし翌。
がいがけないらせを持って帰ってきた。
森千代らしき女性が見つかった。
福岡内の引揚者収容所。
妙子たちのから汽と徒歩で半ほど。
「きてた……」
は呟いた。
嬉しそうには見えなかった。
むしろ、捨てられるのらせを聞いたような顔だった。
が言った。
「、確かめにこう」
が急にちがった。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
昭和51年、帰宅目前で消えた25歳女性社員
「一人で静かに帰りたいので、大丈夫です」 昭和51年、25歳のみち子は飲み会のあと、一人でタクシーへ乗った。 運転手は、彼女を自宅からわずか50メートルの場所で降ろした。 「夜遅くにありがとうございました」 それが、みち子を見た最後の証言だった。 布団は朝まで誰にも使われず、通帳も着替えも部屋に残っていた。 上司と同僚には不自然な空白時間があったが、何も見つからなかった。 そして9年後。 亡くなった上司の娘が、遺品のアルバムを開いた。 失踪当夜の宴会写真の次に、見知らぬ和室を写した一枚が貼られていた。 机の上には、黒い女性用のハンドバッグ。 写真の裏には、みち子が消えた数日後の日付が押されていた。昭和|ミステリー|真相1.7万字5 156 -
完結第10話
昭和63年、消えたいちご農園主――3年後の古い倉庫
「分かった。じゃあ、2時頃に行く」 昭和63年4月5日、いちご農園主の夫は、一本の電話を受けて家を出た。 「夕飯までには戻る」 それが、家族が聞いた最後の言葉になった。 通帳も印鑑も着替えも、すべて家に残されていた。 夫の手帳には、乱れた字で二行だけ書かれていた。 《佐藤さんの件、今日で決める》 《2時 古い倉庫》 しかし名前の挙がった男は、電話も面会も否定した。 倉庫の持ち主も、最初は「会っていない」と証言した。 夫の行方が分からないまま、3年が過ぎた。 そして倉庫の取り壊し当日、周囲と色の違う床へ重機の刃が入った。昭和|ミステリー|真相1.5万字5 17 -
完結第12話
昭和27年、父は町長へ戻らなかった
「父さん、もう一度町長になれるんだよ」 昭和27年、公職追放の制限がなくなる知らせを見て、17歳の私は家へ走った。 かつて町長だった父は、追放後、米俵を運び、工事現場で働いていた。 これで失った名誉を取り戻せる。 そう信じた私に、父は言った。 「もう役場には戻らん」 その後、元町議や商店街の人々が次々と父を訪ねた。 それでも父は、町長選への出馬をすべて断った。 「見返してやればいい」と訴える私へ、父は静かに言った。 「そんな理由で町長になる奴が、一番町長になっちゃいかん」 数日後、町の米屋で、私は父が町長だった頃の“ある決定”について初めて聞かされた。時代|歴史|昭和1.7万字5 16 -
完結第10話
昭和33年、父が隠した高校合格通知
「父ちゃん、今日も合格通知、来てない?」 正吉は新聞から目を上げず、「来てない」と答えた。 修一は、自分は落ちたのだと思った。 ところが翌朝、母が仏壇の引き出しから見慣れない封筒を見つけた。 宛名は修一。 差出人は、受験した県立高校だった。 震える手で封を切ると、そこには《合格》の二文字。 しかも消印は、三日前だった。 その日の夕方、修一は通知を食卓へ置いた。 「父ちゃん、これ知ってた?」 父はしばらく黙ったあと、低い声で答えた。 「ああ。俺が隠した」時代|歴史|昭和1.5万字5 41 -
完結第10話
昭和31年、給料日に消える父の秘密
「お父さん、どうして給料日だけ帰ってこないの?」 昭和31年、父は毎月その日だけ、夜遅くまで姿を消した。 酒も飲まず、賭け事もしない父だった。 それでも理由を聞けば、「男にはいろいろある」と口を閉ざした。 やがて父の腕時計が消えた。 次は冬のコート、その次は革鞄と大工道具だった。 不安になった母は、父が別の女性と会っているのではないかと疑い始めた。 ある給料日、中学1年の私は工場を出た父をこっそり追いかけた。 父が入ったのは酒場でも、女性の家でもなかった。 古い時計や工具が並ぶ、一軒の古物商だった。 15分後、父は持っていた包みを失い、代わりに数枚の紙幣を財布へ入れて出てきた。 その夜、母に問い詰められた父は、いつもと同じ厚さの給料袋を黙ってちゃぶ台へ置いた。時代|歴史|昭和1.5万字5 54