"昭和27年、父は町長へ戻らなかった" 第8話
《本トメ。線延陳。のみ現確認。を見なかった》
「覚えてたの?」
「忘れないためにいたと言っただろ」
宗郎はしばらく帳面を見つめていた。
「まだ元気だったか」
「元気だった」
「そうか」
正は父の横顔を見ながら、初めて気づいた。
この帳面は、自分を責め続けるためのものではない。
同じ違いを、自分ので都よく美化しないためのものなのだ。
昭31になる頃、正は21歳になっていた。運送会社では輩もでき、父に代わってへ料を入れる額も増えた。町政への関は消えるどころかくなっていたが、以のように「父の代わりに自分が」とは考えなくなっていた。
夜になると町の青会へ顔をし、農、商の跡取り、で働く青たちと話した。見がぶつかることもかったが、その度に「自分と違う暮らしをしているには違う理由がある」と考える癖がついた。
そんな頃、宗郎の体調がしずつ悪くなった。
の肉体労働で腰を痛め、薪割りの途でを止めることが増えた。
ある晩、正は父の黒い帳面を返しながら言った。
「父さん」
「何だ」
「これ、いつまでくの」
宗郎は笑った。
「ぬまでじゃないか」
「しんどくない?」
「何が」
「昔の失敗ばっかり覚えてるの」
宗郎は帳面を膝に置いた。
「正。忘れる方が楽なのは分かってる」
広告
しばらく考えてから続けた。
「でもは、自分のしたことを放っておくと、しずつ都のいい話に変える」
町を良くするためだった。
仕方なかった。
みんな同じだった。
あの代だから。
どれも違いではない。
だが、それだけを残せば、その決定で困ったが消えてしまう。
「だから名をいた」
正は、ようやく黒い帳面のを理解した。
そしてその頃から、自分にも冊の帳面を持つようになった。
父の真似ではない。
運送先で聞いた話をくだけだった。
《部集落、季バスなし》
《商、荷ろし所》
《診療所、夜対応なし》
《若者、町就職い》
数字ではなく。
できるだけ、誰から聞いたのかも緒にいた。
昭35、正は25歳になった。
運送会社に勤めて7が過ぎ、荷物を運ぶだけでなく、配や取引先との調も任されるようになっていた。町内のほとんどの集落へったことがあり、商の主から部の農まで、顔をるも増えた。
その、町議会議員選挙がわれることになった。
正は何週も迷った末、宗郎へ話した。
「今度、ようとってる」
父は聞から顔をげた。
「何に」
「町議会」
宗郎は驚かなかった。
「そうか」
「今回は止めないの?」
「俺が止めたらやめるのか」
正は笑った。
「やめない」
「なら聞くな」
7と同じような答えだった。
広告
ただ、正にはそれで分だった。
宗郎はつだけ条件をつけた。
「俺を使うな」
「分かってる」
「元町の息子だと言って票を集めるな」
「言われなくても」
「古川さんにも頼るな」
そこだけは正もし迷った。
古川は今も域で定の響力を持ち、「宗郎さんの息子なら応援する」と以から言っている。選挙を考えれば頼った方がらかに楽だった。
それでも正は頷いた。
「分かった」
候補の噂が広がると、予通り「元町の息子」という言葉が先に歩いた。宗郎の昔の支援者から連絡が来て、援会を作る話まで持ち込まれたが、正は丁寧に断った。
代わりに、自分が仕事で回ってきた所を軒ずつ訪ねた。
昔荷物を運んだ農。
のにち往した集落。
米の佐久。
移転した林吉。
「町議になったら何をしてくれる」と尋ねられるたび、正は簡単な約束をしなかった。
「話を聞いて、できるか調べます」
そんな答えでは票にならない、と笑う者もいた。
「を造りますくらい言えばいいじゃないか」
「造れなかったら嘘になります」
「政治に向いてないな」
何度もそう言われた。
それでも正は変えなかった。
選挙期、予していなかった問題も起きた。
対する陣営の部から、父の公職追放歴を持ちされたのである。
《追放町の息子に町政を任せるのか》
そんな言葉がかれた怪文が、部のへ配られた。
は激した。
「何の話を」
正も腹がった。
だが宗郎だけは静かだった。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
昭和51年、帰宅目前で消えた25歳女性社員
「一人で静かに帰りたいので、大丈夫です」 昭和51年、25歳のみち子は飲み会のあと、一人でタクシーへ乗った。 運転手は、彼女を自宅からわずか50メートルの場所で降ろした。 「夜遅くにありがとうございました」 それが、みち子を見た最後の証言だった。 布団は朝まで誰にも使われず、通帳も着替えも部屋に残っていた。 上司と同僚には不自然な空白時間があったが、何も見つからなかった。 そして9年後。 亡くなった上司の娘が、遺品のアルバムを開いた。 失踪当夜の宴会写真の次に、見知らぬ和室を写した一枚が貼られていた。 机の上には、黒い女性用のハンドバッグ。 写真の裏には、みち子が消えた数日後の日付が押されていた。昭和|ミステリー|真相1.7万字5 168 -
完結第10話
昭和63年、消えたいちご農園主――3年後の古い倉庫
「分かった。じゃあ、2時頃に行く」 昭和63年4月5日、いちご農園主の夫は、一本の電話を受けて家を出た。 「夕飯までには戻る」 それが、家族が聞いた最後の言葉になった。 通帳も印鑑も着替えも、すべて家に残されていた。 夫の手帳には、乱れた字で二行だけ書かれていた。 《佐藤さんの件、今日で決める》 《2時 古い倉庫》 しかし名前の挙がった男は、電話も面会も否定した。 倉庫の持ち主も、最初は「会っていない」と証言した。 夫の行方が分からないまま、3年が過ぎた。 そして倉庫の取り壊し当日、周囲と色の違う床へ重機の刃が入った。昭和|ミステリー|真相1.5万字5 17 -
完結第10話
昭和21年、港で「娘ではない」と言った母
「兄さん。この子は、私の娘ではありません」 昭和21年、引揚船から降りた母は、港で突然そう言った。 右手には、11歳ほどの少女の手を握っていた。 少女は青ざめ、母の袖へしがみついた。 「お母さん……?」 母はその場にしゃがみ、少女の肩を抱いた。 「ごめんね、春恵」 しかし日本へ届いた葉書には、母が連れ帰るのは《娘の文子》だと書かれていた。 では、文子はどこへ消えたのか。 その夜、母は兄夫婦の前で、引揚げ途中に起きたことを語り始めた。 「暗闇で一度だけ、娘の手を離してしまったの」時代|歴史|昭和1.5万字5 38 -
完結第10話
昭和33年、父が隠した高校合格通知
「父ちゃん、今日も合格通知、来てない?」 正吉は新聞から目を上げず、「来てない」と答えた。 修一は、自分は落ちたのだと思った。 ところが翌朝、母が仏壇の引き出しから見慣れない封筒を見つけた。 宛名は修一。 差出人は、受験した県立高校だった。 震える手で封を切ると、そこには《合格》の二文字。 しかも消印は、三日前だった。 その日の夕方、修一は通知を食卓へ置いた。 「父ちゃん、これ知ってた?」 父はしばらく黙ったあと、低い声で答えた。 「ああ。俺が隠した」時代|歴史|昭和1.5万字5 41 -
完結第10話
昭和31年、給料日に消える父の秘密
「お父さん、どうして給料日だけ帰ってこないの?」 昭和31年、父は毎月その日だけ、夜遅くまで姿を消した。 酒も飲まず、賭け事もしない父だった。 それでも理由を聞けば、「男にはいろいろある」と口を閉ざした。 やがて父の腕時計が消えた。 次は冬のコート、その次は革鞄と大工道具だった。 不安になった母は、父が別の女性と会っているのではないかと疑い始めた。 ある給料日、中学1年の私は工場を出た父をこっそり追いかけた。 父が入ったのは酒場でも、女性の家でもなかった。 古い時計や工具が並ぶ、一軒の古物商だった。 15分後、父は持っていた包みを失い、代わりに数枚の紙幣を財布へ入れて出てきた。 その夜、母に問い詰められた父は、いつもと同じ厚さの給料袋を黙ってちゃぶ台へ置いた。時代|歴史|昭和1.5万字5 56