"白いハンカチの約束" 第5話
「まあ、寝坊することだってあるさ」
だってである。
毎朝必ず同じに起きると決まっているわけではない。
トメは自分へそう言い聞かせ、朝の支度を始めた。
しかし包丁で漬物を切りながらも、何度も窓の方を見た。
720分。
ない。
7半。
やはりない。
胸の奥にさながまれ始めた。
の、自分が畳ので倒れていたの景が蘇る。
誰にも分からなかった。
だけが過ぎていった。
もし清かに同じことが起きていたら。
「いやいや」
トメは首を振った。
2暮らしなのだから、自分とは違う。
どちらかが具を悪くしても、もうがいる。
それに昨夜、廊の向こうでを見かけたばかりだった。
元気そうだった。
745分。
何もない。
トメはとうとう朝をべる気をなくした。
窓際へち、3号棟を見つめる。
4階の窓は閉じたままだった。
8。
普段なら自分が座布団をすだった。
トメは押し入れをけ、茶い座布団へを伸ばした。
そのが止まる。
こちらだけしてどうする。
向こうの図がない。
「寝坊しただけだよ」
もう度にした。
けれど自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
85分。
トメは座布団を戻した。
割烹着のからいカーディガンを羽織り、靴を履き直した。
財布も持たず、玄関をる。
5号棟の階段を急いでりた。
広告
齢のせいで膝は以から痛かったが、このばかりは気にならなかった。
へるとたいが顔に当たる。
空きを横切る。
朝の通勤を過ぎた団は静かで、数の主婦が洗濯物を干しているだけだった。
3号棟へ入る。
今度は4階までがらなければならない。
1階。
2階。
息ががる。
3階。
すりへつかまる。
「まったく……4階なんて……」
普段なら途で度休んでいた。
しかしそのは止まれなかった。
ようやく4階へ着く。
松田の玄関へき、扉を叩いた。
「さん!」
返事がない。
もう度。
「さん!」
音が廊へ響く。
「清さん!」
やはり返事はなかった。
トメの顔から血の気が引いた。
扉へを当てる。
から物音はしない。
何度も戸を叩いていると、隣の部から主婦が顔をした。
「あら、林さん?」
「さん、いないの?」
「松田さんですか?」
「朝から返事がないんだよ」
主婦は議そうに扉を見る。
「買い物にたんじゃないですか?」
トメは首を振った。
「違う」
「どうして分かるんです?」
「いのがてないの」
「いの?」
「ハンカチよ」
トメは息を切らしながら、向かいの5号棟を指した。
「毎朝るいハンカチが、今はてないんだよ」
主婦はが分からない顔をした。
けれどトメの様子がただ事ではないことだけは理解した。
「管理さん、呼んできましょうか」
「お願い」
トメは玄関のをれなかった。
広告
管理が来るまでの数分が、トメにはひどくくじられた。
もし部ので2とも倒れていたらどうしよう。
もし昨夜から何か起きていたら。
に浮かぶのは悪い像ばかりだった。
隣の主婦が、
「昨、松田さんを見ましたよ」
と言ってくれた。
「夕方、奥さんがゴミをしてました。普通に元気そうでした」
「そうかい」
ししかけたが、ではなぜハンカチがなかったのかという疑問が残る。
やがて管理が階段をがってきた。
「どうしました?」
「松田さんのところ、誰もないんです」
隣の主婦が説した。
管理は扉を叩いた。
「松田さん!」
返事はない。
しかし玄関周りを確認しているうちに、管理が何かいした。
「ああ」
トメたちが斉に顔を見る。
「今朝、松田さんの奥さんがていくのを見ました」
「さん?」
「はい。かなり慌ててました」
トメは管理へ詰め寄るように尋ねた。
「どこへ?」
「確か所の佐藤さんので……」
ちょうどその、階段のから別の主婦ががってきた。
「松田さんなら病院ですよ」
トメの胸がきく鳴った。
「病院?」
「朝く、ご主が胸が苦しいって言いしたそうです。さんがうちの主に頼みに来て、で病院へ連れていきました」
「清さんが?」
「ええ」
トメは壁へをついた。
隣の主婦が慌てて支える。
「林さん、丈夫ですか?」
「丈夫、丈夫」
ではそう言いながら、膝から力が抜けそうだった。
怖れていた形とは違った。
清はで倒れたわけではない。
がそばにいて、すぐ病院へ連れてった。
広告
おすすめ作品
-
完結第10話
赤いバイクと最後の新聞
昭和50年、岐阜県の山あいに、全校児童がわずか3人だけの小さな分校があった。 給食もなく、冬は石油ストーブを囲んで授業を受けるような古い木造校舎。そんな子どもたちが毎朝楽しみにしていたのは、山の外の世界を伝えてくれる一部の新聞だった。 ところが、その分校は翌年3月で閉校することが決まる。教材も雑誌も次々と止まり、子ども新聞の購読も打ち切られた。 それでも、59歳の郵便配達員・田所信一は、雪の山道を越えて毎朝新聞を届け続けた。 誰も頼んでいない。もう学校も終わる。たった3人の子どものために、なぜそこまでするのか。 分校最後の日、子どもたちは初めて知ることになる。 田所が守ろうとしていたのは、新聞そのものではなかった――。昭和1.5萬字5 3 -
完結第11話
余ったパンの嘘
昭和43年、東京近郊の古い木造小学校。 5年生の担任・村上昭一には、子どもたちが気になって仕方ない習慣があった。給食の時間になると、牛乳とおかずは食べるのに、コッペパンだけは毎日ほとんど口にしない。そしてそれを紙に包み、古びた革鞄の中へそっとしまうのだ。 「先生、今日も持って帰るの?」 子どもたちが尋ねても、村上はただ「腹いっぱいなんだよ」と笑うだけだった。 けれど、毎日続くその行動には、誰にも言えない理由があった。 ある放課後、どうしても気になった3人の男子は、先生の後をつけることにする。黒い自転車で工場町を抜け、川沿いの砂利道を進んだ先にあったのは、河川敷に建つ小さな家だった。 そこで子どもたちは、先生がなぜ「余った」と言い続けていたのかを知る。 1本のコッペパンに込められていたのは、ただの親切ではなかった。相手の誇りまで守ろうとした、静かな優しさだった。昭和1.6萬字5 915 -
完結第11話
母に届かなかった10円
昭和55年、駅前の公衆電話の横に、毎月25日だけ10円玉が一枚置かれるようになった。 落とし物にしては場所が不自然で、誰が置いているのかも分からない。新聞売りの森田は、毎月同じ日に現れるその小さな硬貨を不思議に思い、やがて駅前の子どもたちもそれを「10円の日」と呼ぶようになる。 そんなある冬の朝、森田はついに10円玉を置く女性の姿を見つける。 なぜ彼女は、誰にも知られないように毎月10円玉を置き続けていたのか。 その理由は、何十年も前、たった一枚の10円玉がなかったためにかけられなかった「あの日の電話」に隠されていた――。昭和|親子関係1.6萬字5 301 -
完結第10話
売らなかった紙
昭和48年、オイルショックの不安が日本中を包み、商店街から次々と日用品が消えていった。 大阪の小さな乾物屋「丸福商店」にも、ある日、待ち望まれていたトイレットペーパーが入荷する。店先にはたちまち人が集まり、誰もが一つでも多く手に入れようとした。 ところが店主・福田源蔵は、奥に在庫があるにもかかわらず、こう貼り出す。 「本日、トイレットペーパーは販売いたしません」 客たちは怒り、源蔵を責めた。値上げするつもりなのか、隠しているのか、商売人としてひどいのではないか――。長年の常連までもが、冷たい言葉を残して店を去っていく。 それでも源蔵は、最後まで売らなかった。 その夜、店のシャッターが下りた後、彼は誰にも言わず、自転車の荷台に白い包みを積み始める。 売らなかったのは、儲けるためではなかった。 あの夜、源蔵が本当に守ろうとしていたものは、棚の商品ではなく、この町に残る小さな信用だった。昭和1.5萬字5 1791