"昭和63年、消えたいちご農園主――3年後の古い倉庫" 第10話
もうし頑張る》
といてあった。
幸子はその文字を見たまま、しばらくけなかった。
夫は消えようとしていなかった。
そんなことはから分かっていた。
けれど本の文字で、
「もうし頑張る」
と残されている。
それだけで胸がいっぱいになった。
さらにページの端に、さな字があった。
《佐藤さんの件、話し方に気をつける》
幸子は目を閉じた。
夫も考えていた。
どう伝えるか。
働いたへ、
「仕事を減らしたい」
と言わなければならない。
それを簡単なことだとってはいなかった。
それでも結果は変わらなかった。
は、
言葉を選んだから必ず伝わるわけではない。
善があれば争いが起きないわけでもない。
瞬のりが、を壊すこともある。
そしてそののつの嘘が、
翌のもうつの嘘につながる。
佐藤が最初のに自首していれば。
本がの異変を警察へらせていれば。
警察がと決めつけず、周辺をもっと詳しく調べていれば。
田が待ち続けることはなかったかもしれない。
けれど「もし」は、真実がらかになったにだけ、いくらでも見つかる。
幸子は帳面を閉じた。
そのの。
博志が最初に赤くなったいちごを持ってきた。
「母さん」
「何?」
「これ、父さんのところ持ってく?」
幸子は笑った。
「番いいのを選んでよ」
広告
「これが番いい」
「本当?」
「農園主を信用してください」
「まだお父さんには敵わないね」
「それ、何言うんだよ」
で笑った。
墓へき、いちごを置いた。
幸子はをわせた。
昔のように、
「帰ってきて」
とはもう言わなかった。
代わりに、
「今もできましたよ」
と報告した。
、夫の真実は面のにあった。
そのでは、
族が待ち、
疑い、
噂し、
季節だけがんでいった。
真実がへた、
誰かが救われたわけではない。
夫は帰らない。
失われたも戻らない。
けれどなくとも、
田茂が族を捨てて消えたのではなかったことだけは、
族のもとへ戻ってきた。
それは幸子にとって、
夫の体を取り戻すこととは別の、
もうつの帰宅だった。
昭63の。
の農園主が消えた。
疑われたのは、
をめぐって揉めた作業員。
争いをしていた隣。
遺産問題を抱えていた兄。
それぞれに、
疑われる理由があった。
そして。
隣の倉庫から骨が見つかった、
誰もが、
「やはり本だった」
とった。
だが真実は違った。
最もきなみをにしていた者ではなかった。
を持つ隣でもなかった。
京にいる兄でもなかった。
毎朝同じハウスへ入り、
同じいちごを摘み、
、田茂のすぐ隣で働いていた男だった。
佐藤誠。
そして事件をんだのは、
広告
何も練られた計画ではなかった。
ほんの数分のりだった。
だがのを壊したのは、
その数分だけではない。
その、
助けを呼ばなかったこと。
隠したこと。
嘘をついたこと。
翌も黙ったこと。
も。
も。
も。
その積みねだった。
倉庫が取り壊されなければ、
さらにい、
田茂は見つからなかったかもしれない。
幸子は々、そのことを考えた。
「真実はいつか必ずらかになる」
という言葉を聞くことがある。
けれど幸子は、それほど簡単にはわなかった。
真実は、
誰かが掘らなければ面のに残ることもある。
誰かが話さなければ、
の胸のに埋まったままになることもある。
だからこそ、
見つかったに目を背けないことが切なのだとった。
夕方。
墓から帰るの向こうに、かつての農園が見えた。
のを受け、
ビニールハウスがくっている。
そのでは、今もいちごが赤くなっていた。
茂がいなくても、
季節は止まらない。
族も、
止まったままではきていけない。
幸子はゆっくり歩いた。
夫を忘れたからではない。
忘れないまま、
残されたをきるためだった。
※本作は、昭末期の千葉県郊の農といちご栽培を背景に構成した創作です。
広告
おすすめ作品
-
完結第18話
昭和27年、戦争未亡人が開いた小さな店の50年
昭和27年の春。戦争で夫を亡くした三十歳の女性は、八歳の息子を育てるため、自宅の一角に小さなたばこ屋を開いた。初めて売れた一箱のピース。窓の横で宿題をする息子。毎朝やってくる常連客。決して楽な暮らしではなかったが、小さな窓の向こうには、いつも誰かの声があった。やがて息子は成長し、町には自動販売機が増え、馴染みの客も一人、また一人と姿を消していく。そして開店から五十年、彼女は店を閉める決心をする。時代|歴史|昭和|夫婦3.7万字5 192 -
完結第10話
受話器の向こうの春
昭和19年、神戸。幼いころに母と弟妹を亡くし、親戚の家を転々としてきた15歳のハルは、自分の力で生きるため、電話交換手を目指す。厳しい試験と訓練を乗り越え、ようやく手にした仕事。失敗ばかりの日々も、優しい先輩や仲間たちに支えられ、ハルは初めて自分の居場所を見つけていく。受話器の向こうには、家族を思う声、助けを求める声、遠い街で働く仲間の声があった。しかし戦況が悪化するにつれ、つながらない回線が増え始める。戦火が迫る神戸で、少女が守ろうとしたものとは――。時代|歴史|昭和1.5万字5 140 -
完結第20話
大正、子守奉公の少女
大正時代、貧しい農家に生まれた十一歳の少女は、「三度の飯」を条件に子守奉公へ出された。赤ん坊を背負う毎日から工場近くの家、東京の屋敷へ。三年分の奉公賃は家族に渡され、働く場所も自分では決められなかった。やがて海を越えて旅順へ渡った彼女は、子どもたちの世話をしながら、文字を覚え、針仕事を学び、少しずつ自分の世界を広げていく。誰かのために働くことしか知らなかった少女は、いつか自分の人生を選べるようになるのだろうか。時代|歴史|真相2.8万字5 366 -
完結第20話
昭和62年、国鉄最後の日に駅弁を一つ売らなかった理由
昭和62年3月31日、国鉄最後の日。森渡駅で三十年以上、鶏めし弁当を売り続けてきた宮原澄江は、最後の一個を売らずに残した。翌日から駅の売場はなくなり、長年守ってきた商売も岐路に立たされる。新しい販売条件、息子が勧める国道沿いの店舗、従業員たちの生活。変わりゆく町で、澄江は初めて自分の仕事と向き合い始める。なぜ彼女は、最後の弁当を売らなかったのか。時代|歴史|昭和2.8万字5 169 -
完結第17話
忘れたコートが教えてくれたこと
結婚式まであと3週間。高橋ゆいは婚約者・博人の実家に忘れたコートを取りに戻り、衝撃的な会話を耳にする。食卓に広げられていたのは、祖母から相続した自分のマンションを、博人の実家が営む会社の追加担保にする計画書だった。しかも本人への説明は「婚姻後1週間」の予定。14人の従業員を守るためだと訴える婚約者の母と、すべてを知りながら黙っていた博人。人生逆転|裡切られた|夫婦|真相|修羅場2.0万字5 692 -
完結第20話
死んだ母を名乗る女
母を亡くして二年。三十歳の浅沼美咲は、空き家となった実家を片付けている最中、郵便配達員から思いがけない言葉を告げられる。「先月もお母様にお会いしましたよ」。亡くなったはずの母を名乗り、郵便物を受け取っている女がいるというのだ。家の中に残された生活の痕跡、天井裏から聞こえる不審な物音、そして母宛てに繰り返し届く現金書留。兄とともに調べ始めた美咲は、疎遠だった叔母の影と、母の遺産をめぐる不穏な思惑に気づく。死者の名を使ってまで隠そうとした秘密とは。真相|親子関係2.3万字5 1646 -
完結第20話
シャッターを切らなかった日
昭和46年、水俣。写真館で働く17歳の村瀬航一は、町の現実を新聞に伝えようと、仕立て屋の橋本夏枝にカメラを向ける。しかし、彼女から「撮らないで」と拒まれた後、以前撮った手の写真が本人の了承なく新聞に掲載されてしまう。その一枚は夏枝の仕事と暮らしに思わぬ影響を及ぼした。工場で働く父、被害を訴える住民、善意で支援する人々。それぞれの事情に触れるなかで、航一は問い始める。人の苦しみを伝えることと、その人の人生を勝手に語ることは、同じなのだろうか。激動の昭和を背景に、写真と人間の尊厳を描く物語。時代|歴史|昭和|真相2.7万字5 89 -
完結第12話
消えた路地の矢印
昭和39年、東京オリンピックを目前に控え、東京の街は急速に姿を変えていた。23歳の標識職人・黒田俊も、新しい道路の案内板を作る仕事に追われていた。ところが工事によって古い路地が封鎖され、診療所へ通う老人や商店の人々が行き場を失い始める。立ち退きを迫られる活版所の親子、変わり続ける迂回路、そして正しいはずの標識に迷わされる人々。時代|歴史|昭和|真相|修羅場2.8万字5 56