"焼け残った家を壊せと言われた" 第3話
その夜、信は裏庭の井戸へを汲みにた。縁には使われた跡があり、縄が擦れた溝が何本も残っている。子どもの頃から見慣れた井戸だったため、今までそれを特別だとったことはなかった。
そこへハルが洗い物を持っててきた。
「今も父さんと喧嘩したんだって?」
「喧嘩したいわけじゃないよ。ただ、何をそんなに守りたいのか分からないんだ」
ハルは桶を置き、井戸のを覗いた。暗い面に、夕方のい空がさく映っている。
「お父さんはね、を守ったんじゃないよ」
信は母を見る。
「じゃあ何を守ったの?」
ハルは答えなかった。
「そのうち話すよ」と言って、桶へを移しただけだった。
翌朝、信がをけると、の老婆が豆腐を買いに来た。代を渡したあと、彼女は裏庭の方を何度も見て、「井戸もなくなるんだってね」と寂しそうに言った。
「まだ決まったわけじゃありません」
「そうかい」
老婆はしばらく黙り、それからなことをにした。
「うちの孫は、あの井戸がなかったら3つまできられなかったよ」
信が聞き返すに、老婆はをげてをていった。
父が守ろうとしているものが、しずつ自分のらない姿へ変わり始めていた。
井戸について尋ねても、清吉は何も説しようとしなかった。「昔の話だ」の言で終わらせ、信がいがれば嫌を悪くする。
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戦争のことを話したがらないは珍しくなかったため、信も最初は無理に聞くべきではないとっていた。
ところが、それから数のに似たことが続いた。豆腐を買いに来た老が「井戸を残せるなら残してくれ」と言い、所の女はハルへ「役所に何か言えることがあれば私も名をくよ」と声をかけた。信のらないところで、あの井戸は相沢だけのものではなくなっていた。
方、役所からは移転に関する類が次々と届いた。換の候補、補償の考え方、建物の移転期、説会の程。信が読めば読むほど、計画そのものを止めるのは現実ではないと分かってきた。
しいは相沢だけを狙って造られるものではない。焼け跡帯を貫き、駅から通りへつながる線として計画されている。軒の事だけで曲げれば、隣のや別の商へしわ寄せがくことになる。
「だからこそ、全部反対じゃなくて、何を残せるか考えた方がいいんじゃないか」
信がそう言うと、清吉は珍しく鳴らなかった。ただ、「おには分からん」とだけ言って、豆腐を切る包丁を置いた。
その夜、ハルが信を仏壇のへ呼んだ。
清吉は町内会の集まりへており、にはしかいなかった。ハルは仏壇の番にあるさな引きしをけ、から古びた帳面を取りした。
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表は湿気で波打ち、角が黒く擦れている。
「これを見な」
信が最初のページをくと、そこには母の字で付と名が並んでいた。
《昭20316 田 》
《 赤子あり》
《浅野さん やけど》
《吉川 祖母けず》
信はが分からず母を見た。「これ、何の帳面?」と尋ねると、ハルはしばらく昔をいすように黙った。
「井戸へを汲みに来ただよ」
京がきな空襲に遭ったあと、この辺りではが止まり、焼け跡のあちこちでがりなくなった。相沢の井戸だけは使えたため、が収まった翌朝からが集まったという。
鍋。
薬缶。
桶。
割れた瓶。
を。
入れられるものなら。
何でも持ってきた。
ハルは、誰へどれだけを渡したのか忘れないため、名と数を帳面へいた。がなくなれば乳児や怪のいるを先にする必があり、同じが何度も来ても責めず、族の数だけは確認したという。
信はページをめくった。
数どころではなかった。
最初の1週だけで、所の々の名が何ページにも並んでいる。
「あのは豆腐なんて作れなかったよ。お父さんは釜まで洗って、を溜める桶にした。夜になってもが来るから、井戸の横で寝てたこともあった」
信は父からそんな話を聞いたことがなかった。
清吉が「を守った」
と繰り返すたび、そのものが焼けなかったことを誇っているのだとっていた。
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