"山寺に消えた妻" 第1話
婚してから7が過ぎても、健斗はまだあの夜から抜けせずにいた。
夜、京の最階にあるマンションで、健斗は全に汗を浮かべてベッドからび起きた。呼吸は荒く、喉は乾き、胸の奥がく締めつけられている。
「また、あのか……」
暗い部ので、彼はかすれた声を漏らした。
のには、いつも同じ面がてきた。妻だったがさな荷物をまとめ、涙をこらえながら玄関にっている姿。自分がその背に浴びせたたい言葉。そして、母の良子が鳴りながら塩を撒かせた景。
「よくも私の息子の血のようなを、若い男に貢いだわね。汚らわしい。塩を撒きなさい」
あの、は弁解ひとつしなかった。
義母の声を浴びても、夫である健斗が婚届を投げつけても、ただ青ざめた顔でをげ、裸同然ののままをていった。
当、誰もがを疑った。庫から宝を盗み、若い男に貢ぎ、その男とアメリカで贅沢昧に暮らしているのだと、良子は周囲に言いふらした。健斗もまた、その話を信じた。信じたからこそ、自分のりを正当化できた。
だが、が過ぎるほど、りは消え、胸の奥には得体のれない痛みだけが残った。
健斗はベッドサイドの引きしをけ、鎮痛剤を2錠、に含んだ。で流し込んだあと、続けて眠薬にもを伸ばす。
広告
薬をみ終えると、彼は乾いた笑みを浮かべた。
「これでも、眠れないだろうな」
42階の窓のには、京のかりが広がっていた。だが、そのは健斗のをしも温めなかった。
翌朝8、実の堂で、母の良子は聞を広げながら当然のように言った。
「健斗、エリカさんとの結婚式の取りを決めなさい。今には決めるって言ったでしょう」
健斗はコーヒーカップを持ったを止めた。
「母さん、今のグループの状況をっているでしょう。結婚なんて考えている余裕はありません」
良子は聞を卓に叩きつけた。
「余裕がないってどういうことよ。朝建設と併しなければ、資問題は解決しないのよ。エリカさんと結婚しなければ、うちのグループは終わりよ」
健斗は額にを当て、いため息をついた。
「そんなふうに結婚を取引にするんですか」
良子は箸を振り回しながら声を荒げた。
「取引だろうが何だろうが、き残らなきゃがないの。あんたが7、あの女のせいで腑抜けになっていた、誰がこのを守ったとっているの。今回くらい、私の言うことを聞きなさい」
の名がた瞬、健斗の顔がこわばった。
胸の奥に、まだ乾いていない傷がある。
その傷に、母はいつも平然と指を入れてくる。
午10、成グループの会で、社員が震えるで報告を差しした。
広告
「会、第3半期の実績報告です。数値が予よりも……」
健斗は報告を机に叩きつけた。
「予より何がどうなっているんだ。まともな報告もできないのか」
社員は青ざめてをげた。
「申し訳ありません。理し直してまいります」
健斗は両で顔を覆い、鳴った。
「ていけ。全員、ていけ」
社員たちが慌てて会をていくと、秘の佐藤が静かに扉を閉めた。彼は健斗の様子をしばらく見つめ、慎にをいた。
「会、最ご無理が過ぎます。社員たちも配しています」
健斗は窓のを見たまま、乾いた声で笑った。
「配? みんな、私がいつ潰れるか興津々なだけだろう」
佐藤は歩にた。
「し休息が必です。私の母が通っている奥のさなお寺があります。通りもなく、空気も良くて、静かな所です。今の午、しってみてはいかがでしょうか」
健斗はしばらく黙っていた。
やがて、疲れ切ったようにうなずいた。
「今の午の予定を、全部キャンセルしてくれ」
午、佐藤の運転するは京をれ、へ入っていった。ビルの隙から見えていた空は、いつのにか広くなり、窓のにはい緑が続いている。
健斗は部座席で黙って景を眺めていた。
都会をれるにつれ、ので騒いでいた声がしずつざかる気がした。
1ほどると、い所にさな寺が現れた。本堂と数棟の建物があるだけの、質素で静かな寺だった。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
消えた水色の妹
2001年、姉の結婚式の日に突然姿を消した24歳の看護師・小百合。 財布も携帯電話も残したまま、非常口へ向かった彼女の最後の姿だけが、防犯カメラに記録されていた。 家族は7年間、必死に彼女を捜し続けた。 そして夫となった男も、誰よりも協力的な家族として小百合を探し続けていた。 しかし、引っ越しを前に開けられたベランダの作業部屋で見つかったのは、誰も予想しなかった7年前の痕跡だった。 壁の中に隠されていた一本の携帯電話と、残されたわずかな言葉。 あの日、結婚式の裏側で何が起きていたのか。 そして、最も信頼されていた人物が隠していた真実とは――。ミステリー|行方不明1.9萬字5 145 -
完結第10話
トウモロコシ畑に消えた母
1999年、長野の静かな村で起きた不可解な事件。 朝のトウモロコシ畑で発見された農家の女性は、周囲から「親孝行な婿」に守られていたはずだった。 しかし、現場に残された小さな痕跡と、15年後に開かれた古い証拠が、誰も疑わなかった男の裏の顔を暴いていく。 家族を支える優しい婿の仮面の裏に隠されていたものとは――。 長い年月を経て、静かな村に埋もれていた真実が、ついに明らかになる。ミステリー|行方不明1.5萬字5 69 -
完結第11話
最後の定期券
30年間、毎朝駅へ向かい続けた父。 定年後、突然姿を消した彼の行き先は、30年前に消えた小さな駅だった。 娘が父の部屋で見つけた一枚の古い切符と、「必ず迎えに行く」という謎の言葉。そこから、父が誰にも話さなかった過去が少しずつ明らかになっていく。 父が30年間守り続けていた約束とは何だったのか。 そして、あの日駅から消えた少女の行方は――。ミステリー|行方不明1.6萬字5 282 -
完結第11話
飛騨の農家に消えた嫁
1995年、岐阜県飛騨地方の山あいにある和牛農家へ嫁いだ27歳のゆき子。 よく働き、誰にも逆らわず、慣れない村で必死に暮らしていた彼女は、ある冬の日、牛舎へ向かったまま姿を消した。片方だけ残された長靴。消えた青いジャンパー。そして、家族が語った「自分から出て行った」という言葉。 警察は深く調べることなく、失踪は家出として処理された。 それから8年。村では何事もなかったように季節が巡り、義父の幻蔵は“誠実な畜産農家”として周囲から慕われ続けていた。 しかし、牛舎裏の堆肥の山から見つかった人骨が、止まっていた時間を動かす。 長年誰も近づけなかった壺のそば。夜ごと繰り返された寝言。真冬の洗車場で執拗に洗われた軽トラック。 誰も探さなかった若妻は、8年間どこにいたのか。 そして、家の体面を守るために義父が隠し続けたものとは――。ミステリー|行方不明1.6萬字5 266 -
完結第11話
6秒の着信
2019年10月、紅葉の雪岳山を訪れた若い恋人、ジフンとアリン。 翌年に結婚を控えた2人は、記念写真を残すために山へ向かった。登山口の防犯カメラには、笑い合いながら歩く幸せそうな姿が映っていた。 しかし午後3時過ぎ、2人は分岐点でなぜか正反対の道へ進む。 そして、そのまま山の中から忽然と姿を消した。 大規模な捜索が行われても、足跡も荷物も見つからない。事故なのか、失踪なのか、それとも誰かが2人を誘い込んだのか。真相が分からないまま、3年の月日が流れていく。 やがて2022年、登山道近くの泥の中から、アリンの携帯電話が発見される。 そこに残されていたのは、最後に撮られた1枚の写真と、わずか6秒間の通話記録。 「そのまま来てください。彼も着きました」 その短すぎる声が、3年間“山で消えた”と思われていた恋人たちの、本当の行き先を暴き始める――。ミステリー|行方不明1.6萬字5 272 -
完結第10話
退職祝いは離婚届
38年間、仕事一筋で家族を支えてきた黒田俊夫。 退職祝いの夜、彼は妻・真由美に言った。 「これからは、二人でゆっくりしよう」 しかし、その言葉を聞いた真由美は笑わなかった。彼女が静かに差し出したのは、白い封筒に入った離婚届だった。 若い頃に交わした旅行の約束。何度も後回しにされた夫婦の時間。「退職したら」「落ち着いたら」「今度こそ」と言われ続けた38年。 俊夫にとっては、これから始まるはずの老後だった。けれど真由美にとっては、もう待ち続ける時間の終わりだった。 妻はなぜ、夫の退職の日を選んで家を出たのか。 そして俊夫は、妻がいなくなった家で初めて、自分が見てこなかったものに気づいていく――。夫婦|第二の人生|熟年離婚1.5萬字5 711 -
完結第11話
私を変えた元嫁
老舗和菓子店「宮本屋」を守ってきた宮本美津江は、一人息子の結婚相手・梨奈を初めて見た時、心の中でこう思った。 「この子なら、教えれば変えられる」 靴の揃え方、挨拶、お辞儀、言葉遣い、店での立ち居振る舞い。美津江はかつて自分が姑に教え込まれたように、嫁である梨奈を“宮本屋にふさわしい人”へ育てようとした。 最初は頼りなかった梨奈も、やがて店の顔となり、若女将として客に愛される存在になっていく。売上も伸び、雑誌やテレビにも取り上げられ、美津江は誇らしげに言った。 「この子は、私が育てたのよ」 けれどその言葉は、少しずつ梨奈の心を傷つけていた。 そんな中、息子・拓海の裏切りが発覚する。梨奈は家を出て、宮本屋を去る決意をするが、美津江が最初に心配したのは、嫁の心ではなく店の未来だった。 梨奈は本当に、美津江に育てられただけの嫁だったのか。 そして、宮本屋に残された美津江は、梨奈のいない店で初めて、自分が何を奪い、何を見落としてきたのかを知る。 嫁を変えようとした姑と、自分の人生を取り戻そうとした元嫁。 これは、家族でも他人でもない二人の女性が、衝突の末にもう一度向き合っていく物語。嫁姑|第二の人生1.6萬字5 134 -
完結第12話
壁の中の13年
平成3年、埼玉の小さな町で、妊娠8か月の美智子が突然姿を消した。 財布も出産準備の品も家に残されたまま。昼にはスーパーで買い物をし、公衆電話から誰かへ電話をかけ、その後、背の高い男と歩く姿を目撃されたのを最後に、彼女の行方は分からなくなる。 夫の誠、東京にいたはずの兄・茂、そして美智子を追い詰めていた山田家の沈黙。 警察は夫を疑い、町は噂に揺れたが、決定的な証拠は見つからないまま、事件は13年の時に埋もれていく。 しかし平成16年、再開発で古い家が解体された時、寝室の壁の内側から、長年隠されていたものが見つかった。 あの日、美智子は誰に電話をかけたのか。 そして、壁の中に封じられていたのは、彼女の行方だけではなかった――。ミステリー|真相1.8萬字5 633 -
完結第14話
10年目のゲームボーイ
1991年、8歳の誕生日会の最中に、篠原恵美の息子・直樹は忽然と姿を消した。 公園には多くの親子がいた。ほんの数分前まで、直樹は青いゲームボーイを手に友達と遊んでいたはずだった。だが、気づいた時にはどこにもいない。目撃者も、手がかりも、残された物もなかった。 それから10年。 息子を見失った母の時間だけが、あの日のまま止まっていた。 そんなある日、友人に連れられて訪れたフリーマーケットで、恵美は古い玩具の山の中から一台の青いゲームボーイを見つける。そこには、直樹が自分で貼ったはずの3枚のシールが、記憶のまま残されていた。 それを売っていたのは、かつて地域で信頼されていた元警察官の男。 なぜ、消えた息子の持ち物が10年後にそこへあったのか。 そして男が思わず口にした「息子」という言葉が、隠されていた10年の闇を少しずつ暴き始める――。ミステリー|裡の顔2.1萬字5 254 -
完結第14話
新郎が消えた結婚式
親に捨てられた私を育ててくれたのは、血のつながらない兄・航太だった。 両親が借金を残して消えた日、大学生だった兄は「俺が何とかする」と言い、働きながら私を支えてくれた。高校を中退した私を責めることもなく、ずっと本当の家族として守ってくれた。 そんな兄が、ようやく結婚することになった。 私は心から祝福するつもりで式場へ向かった。けれど式の直前、エリートの兄嫁は私に笑顔で言い放つ。 「毒親の連れ子なんでしょ?中卒のクズは参列しないで」 兄の幸せを壊したくなくて、私は黙って帰ろうとした。 しかし、その言葉を兄は聞いていた。 「分かった」 そう言った兄が次に選んだ行動で、華やかな結婚式場から人が次々と消えていく――。 血のつながりではなく、苦しい時に誰が隣にいてくれたのか。本当の家族の意味を描く、涙と因果応報の物語。兄弟姉妹|第二の人生2.1萬字5 994