54歳の大庭律子は、市民プールの清掃スタッフとして働いている。 3年前に乳癌の手術を受け、左胸を失ってから、彼女は自分の身体をどこか他人のもののように感じていた。温泉にも行けず、水着を着ることもなく、鏡の前では息を止める癖がついていた。 そんなある夜、初心者レーンで泳ぎを習う70代の老人・須賀と出会う。 何度も水を飲み、息継ぎに失敗しながらも、須賀は諦めずに25メートルを目指していた。 「吸うんじゃなくて、先に吐くんです」 インストラクターのその言葉が、律子の心に小さな波紋を残す。 傷を隠し、欲しいものを我慢し、次の検査日だけを数えて生きてきた律子。けれど水の中で不器用に息を探す老人の姿を見つめるうちに、彼女の中で忘れていた感覚が少しずつ動き出す。 生き残った身体を、もう一度、自分のものとして受け入れられるのか。 水の中で吐き出した先に、律子が初めて吸い込んだ“次の息”とは――。